―争う相手を間違わないで― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…なぜ、あなたがたは、わたしと争うのか。あなたがたはみな、わたしにそむいている。―主の御告げ―わたしはあなたがたの子らを打ったが、むだだった。その懲らしめは役に立たなかった。あなたがたの剣は、食い滅ぼす獅子のように、あなたがたの預言者たちを食い尽くした。あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。わたしはイスラエルにとって、荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。どうしてわたしの民は、【私たちはさまよい出て、もうあなたのところには帰りません】と言うのか。おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。あなたが愛を求める方法は、なんと巧みなことか。それであなたは、悪い女にも、自分の方法を巧みに教えたのだ。あなたのすそには、罪のない貧しい人たちの、いのちの血が見える。彼らの押し入るのを、あなたが見つけたわけでもないのに。しかも、これらのことがあるにもかかわらず、あなたは【私には罪がない。確かに、御怒りは私から去った】と言っている。【私は罪を犯さなかった】と言うから、今、わたしはあなたをさばく。なんと、簡単に自分の道を変えることか。あなたはアッシリヤによってはずかしめられたと同様に、エジプトによってもはずかしめられる。そこからもあなたは、両手を頭にのせて出て来よう。主があなたの拠り頼む者を退けるので、あなたは彼らによって栄えることは決してない。…』」

エレミヤ書2章29-37節

 

自分の問題については向き合う、ということが大事になりますよね。あれが悪い、これが悪いと考える前に自分はどうだったか。でも、それだと直すべきことがあるなら直せないし、変わることができませんよね。何より自分では同にもかえがたいことだってあります。ただ私たちが忘れてはいけないのは、神様があなたのベストを知っておられるという事。神様はあなたを聖いものへと変えたい。私たちは神様に帰ろう。神様と争うのではなく、神様の愛に生かされ歩みたいものです。

 

さて、「ついで、私に次のような主のことばがあった。『さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ。―主の御告げ―』」と始まった神様のことば、婚約時代の、いや永遠に続く愛を願い語られた預言になります(紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤを通して神様が預言していったことば)

 

ここまで神様がそのような関係に招いてくださっていたのに好きなように離れて神様が結ばせようとしていた実ではなく悲しみの実を結ぶことへの嘆き、世の、罪の奴隷・縄目を負ってしまったことへの嘆き、それによってあるべき姿を失ってしまったことを嘆き、彼らを何とか命あるものへ変えよう、聖めようとしていることを訴えてきました。

 

神様はなおエレミヤを通してなお「なぜ、あなたがたは、わたしと争うのか。あなたがたはみな、わたしにそむいている。―主の御告げ―」と語られます。このことばを聞いてどう思うでしょうか。いや、私は神様と争ったことはない、そんなつもりはない、と思うでしょうか。私もあまり聖書のことを知らなかった時には同じような事を思っていました。

 

ただ、その後の話にもつながってくるのですが、神様は「あなたと争う」のではなく、捨てるのでもなく、ここまでの預言でも触れられてきたように、あなたをいのちの関係に招きたいのです。私たちは、私は、あなたは、神様によって造られた大切な存在ですから、その愛を注ぎたい、完全な御心、ご計画があるのです。しかし、私たちが神様と争う、神様の言うそれは私の願っている事とは違う、もっといいものがどこかにあるに違いない、と離れていく、それが罪であり、神様の御心に、いや神様と争っているという事なのです。神様のあなたに持っておられる愛、ベストに挑みかかっているのですから、それは争っている、と言われたらそうですよね。

 

これを神様が語ろうとしている相手はイスラエルの民、彼らはこれからバビロン捕囚へと向かっていきます。南ユダも北イスラエルの影響を受け徐々に神様から離れていきます。アモス書でみたような搾取して潤っていた姿を見て自分たちも、と思ったのか。神様よりも自分の好きに生きる姿を見てか。ただ南ユダは、北イスラエルがその結果、結局アッシリヤに捕囚されていった姿を今見ている、それにもかかわらず神様から離れていくのです。ヨシヤ王が宗教改革を行いますが、その後、いや自分たちはそれなら神様以上にもっとうまくやれる、と神様から離れてしまうのです。結果彼らはバビロン捕囚に向かっていくのでした。それこそこれまで見てきた縄目、くびきを負わされる、バビロンに。

 

ただ、もう一度思い出していただきたいのは、私たちは神様によって造られたものであり、神様の息吹、霊が吹き込まれ生きたものとなるのです。また、イエス様ご自身も仰られたように、私たちは神様から離れては生きられない、実を結ぶことはできません。イエス様から私たちはいのちをいただいている、神様の恵みを受けているのに、その神様から離れてはどうして本当のいのちあるものとなれるでしょう。エデンの園が神様によって園全体が四方八方全地に至るまでその恵みで満ち溢れていたように、また約束の地を神様が肥沃の大地、乳と蜜の流れる地と呼ばれるほどに神様の恵みに満ち溢れていた、全てのもといは神様なのです。

 

神様が主であって、私たちが主ではない、でもそれにイスラエルの民はいつも違和感を持っていた。自分たちの好きに生きようと好きなものを、それこそ日本でいうなら八百万の神的にしてきたのですが、しかし彼らは息もなく、何もすることはできない、あなたを救えないではないか、と↑の前の箇所でも訴えられていましたね。じゃあ神様は私たちを束縛するのか?いえ、私たちを罪の呪い、世の縄目から解き放って自由にされる。神様の恵みが私たちを覆うのです。そこには、私たちが思う以上の神様の御心が待っているのです。神様と争ってその恵みから離れてどうします?神様はあなたを愛してくださっている、御子イエス様のいのちさえあなたのために惜しまないほどの神様があなたを養ってくださっている、この事を忘れてはいけません。

 

神様はさらに「わたしはあなたがたの子らを打ったが、むだだった。その懲らしめは役に立たなかった」と仰られますが、懲らしめというと厳しい罰をイメージされるかもしれませんが、子どもが危険な事をするとき、悪いことをしている時、それを放置しますか?時に必要な懲らしめは憎くてするのではなく、ただそれはその子が良い子になってほしい、という願いが根っこにあるからするわけでしょう?そうでなければ、じゃあ好きに生きれば?となるわけです。しかし親の愛はそうではない、なら神様ならなおのことです。

 

古代イスラエル王国3代目の王ソロモンは、神様に導かれて「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」とその箴言に残します。これは親への勧めであり、同時に神様の思いなのです。神様は我が子を憎むのではなく愛するゆえに、私たちを鞭を打つといいますか、私たちが苦難に陥った時にその向きを変えさせるために導かれます。じぶんはこうしたいのにどうして?それは神様がそれはあなたの心を、魂を砕くもので、あなたにとって良いものではないからこそ、懲らしめるといいますか、諭してくださるのです。愛していないからではなくむしろ愛しているからこそのことなのです。

 

争うから、もうどうにでもなれ、と放置するのではなく、あなたの向きを変え、いのちある方へと立ち返らせてくださる。私たちにとってはなんでそんなことに、神様がこんな場面に合わせたのか?と思う時があるかもしれませんが、そうではなく神様は、あなたが神様と争い、好きに歩んでそのような場面に陥ったとしても、それでも見捨てずあなたを救わんと語られるのです。私たちが神様から背を背けようとも、何とか命を得てほしい、と語られる、御子イエス様を遣わしてでもあなたをいのちの道に導こうとされた、されているのです。

 

それこそ「あなたがたの剣は、食い滅ぼす獅子のように、あなたがたの預言者たちを食い尽くした。あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。わたしはイスラエルにとって、荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。どうしてわたしの民は、【私たちはさまよい出て、もうあなたのところには帰りません】と言うのか。おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない」と神様が語られるように、あなたが世の勢力やサタン、自分こそ神的な感覚で歩み、結果食い尽くされ、暗闇の中に落ち込んでしまう、そのようなことを悲しまれる。

 

あなたはここで語られるように、「わたしの民」=神様の子なのです。神様の造られた大切な作品、存在なのです。高価で尊い、神様の愛する存在なのです。あなたを荒野に、暗黒の地にする、そこに留めるのではなく、神様の恵みで満たされる方なのです。

 

いいですか?神様が「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか」と仰られるように、その飾り物も帯も、私たちを締め付け拘束するものではなく、それは愛するものからの、「神様」からの贈り物であり、自分を美しく着飾らせていただける飾り物ではありませんか。自分に幸いをもたらし、むしろ自由にされ、神の栄光を反映させ、祝福されるものなのです。神様がくださるのは、まさにその贈り物であり、あなたを罪人としてではなく、どうでもいい存在としてではなく花嫁として迎え入れようとされているのです。そのように見てくださっている、神様の恵みがそれにふさわしくあなたを覆われるのです。神様と争って好き勝手なものを着てどうしますか。

 

神様があなたの拠り頼む者を退けるので、あなたは彼らによって栄えることは決してない、神様はむしろあなたが神様の恵みによって栄える、いのちあるものとするために、私たちを罪人としてではなくイエス様の花嫁としてやがて迎えるべく、私たちの罪を取り除くため、御子イエス様に私たちの罪を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦され、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

それほどの神様の愛があなたを今日覆っている。私たちはもう罪に、飽くに、世の勢力にあなたの内を支配させる、栄えさせてはいけません。むしろ私たちはイエス様の恵みで満たしてください、と祈りたいものです。イエス様があなたの内に住まわれる時、そこは荒野や暗黒の地ではなく、神様のいのちが溢れるところ、あなたへと変えられる。神様の恵みが日々数えきれないほど覆うのです。私たちは神様が御子イエス様のいのちを持ってまで戦い、取り戻されたこのいのち、神様から離れず歩みたいものです。神様から離れるあなたを見捨てず、あなたの内にある罪とサタンと、戦いあなたを取り戻された神様が今日、あなたと共におられ、導かれるから。この神様が勝ち取ってくださったこの命、今日あなたは何を期待するでしょう。