―あなたがどれだけ愛されているのか忘れないで― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。若獅子は、これに向かってほえたけり、叫び声をあげて、その地を荒れ果てさせ、その町々は焼かれて住む者もいなくなる。ノフとタフパヌヘスの子らも、あなたの頭の頂をそり上げる。あなたの神、主が、あなたを道に進ませたとき、あなたは主を捨てたので、このことがあなたに起こるのではないか。今、ナイル川の水を飲みにエジプトの道に向かうとは、いったいどうしたことか。ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤの道に向かうとは、いったいどうしたことか。あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。―万軍の神、主の御告げ―」

エレミヤ書2章14-19節

 

自分が何者なのかを認識する、まあアイデンティティの発見・認識といったところでしょうか、それはとても大切なことで、私たちの歩みを変えます。私たちはどうせ、とよく使いがちなのですが、私たちはどうせ、の存在ではありません。私たちは神様に愛されている、神様によって造られた存在です。あなたを何物にも引き渡してはいけない。神様を求めよう、神様は応えてくださる。あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様が、今日、あなたと共にいる。

 

さて、↑は紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤを通して神様が預言していったことになります。エレミヤは時代に流されることなく、世の情勢に媚を売るでも忖度をするのでもなく、神様に従い歩んでいた、そんな彼を神様は召し出し、預言者として、この終わりの時代(バビロン捕囚に向かっていく中)、南ユダに向けて今神様は語り始め、まずアーモンドの木の枝の幻を見せながら、死をいのちの変える神様の愛が今注がれていること、煮えたぎる窯の幻から差し迫る危機だからこそ神様に立ち返り身を寄せるよう訴えてこられました。そしてハネムーン、永遠の婚姻関係、神様の家族に招こうと訴えるのです。

 

なお神様はエレミヤを通して「イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか」と語られます。今いつものようにこれまでの振り返りを書いている時に、この言葉が深く突き刺さりました。イスラエル、また私たちは奴隷なのか?と。私たちは何でこんなことがあるんだ!と何かの奴隷のように支配されていることを嘆くのですが、そもそも、私たちは↑の前、エレミヤに行って語るように言われた最初のことばで「さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ」と言われていた存在なのです。

 

婚姻関係、永遠のハネムーン期間、神様の愛に、神様の家族として招かれたもの、神様が誠実な愛をあなたに注ぎ続け、豊かな種を蒔かれる、聖なるものとしてくださった、災いではなく喜びを注ぐことを語られていた、そのように神様は私たちを見てくださっているのです。それゆえ、神様は私たちが何者かに獲物にされ、食い尽くされることを良しとはできないのです。私たちが世の勢力、何かを恐れて神様の愛を見失いさ迷うことを良しとはできないのです。

 

だからこそ、神様は今、「イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか」と訴えるのです。あなたは何者ですか?あなたは誰を求め、誰により頼み生きていますか?神様の愛から私たちは離れず歩みたいものです。

 

話を進め、神様はなお続けてエレミヤを通して「若獅子は、これに向かってほえたけり、叫び声をあげて、その地を荒れ果てさせ、その町々は焼かれて住む者もいなくなる。ノフとタフパヌヘスの子らも、あなたの頭の頂をそり上げる。あなたの神、主が、あなたを道に進ませたとき、あなたは主を捨てたので、このことがあなたに起こるのではないか」と語ります。

 

これは、実はこのエレミヤが語る時から18年後に起こることを神様は預言しています。まずこのノフとタフパヌヘスですが、これはエジプトの町を指しています。しかし事件は起こるのです。当時の南ユダの王ヨシヤ王は神様に信頼し神様に従い歩んでいました。ある時、神様が教えてくださった律法の書を発見すると、様々な偶像を打ち壊すし、霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去ります。また、ずっと忘れられていた過越しの祭りを行います。

 

そんな彼への評価は非常に高く、「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった」と歴史書に残されるほどに評価されていたのでした。

 

ところが、彼の治世の終わりごろ、大事件が起こるのです。歴史家のエズラという人は「すべてエジプトの王ネコが、ユーフラテス河畔のカルケミシュで戦うために上って来た。そこでヨシヤは、彼を迎え撃ちに出て行った。ところが、ネコは彼のもとに使者を遣わして言った。『ユダの王よ。私とあなたと何の関係があるのですか。きょうは、あなたを攻めに来たのではありません。私の戦う家へ行くところなのです。神は、早く行けと命じておられます。私とともにおられる神に逆らわずに、控えていなさい。さもなければ、神があなたを滅ぼされます。』しかし、ヨシヤは身を引かず、かえって、彼と戦おうとして変装し、神の御口から出たネコのことばを聞かなかった。そして、メギドの平地で戦うために行った。射手たちがヨシヤ王を射たとき、王は家来たちに言った。『私を降ろしてくれ。傷を負ったのだ。』そこで、家来たちは彼を戦車から降ろし、彼の持っていた第二の車に乗せた。そして、彼をエルサレムに連れ帰った。彼は死んだので、その先祖たちの墓に葬られた。…エレミヤはヨシヤのために哀歌を作った」と記録に残します。

 

もう少し時代的背景を見ますと、アッシリヤはすでに衰退し始めていました。そこでバビロンと交戦しているアッシリヤの救援に向かうべく、今ネコ王はカルケミシュを目指しているところでした。しかし、そのためにはイスラエルを通らなければいけなく、そこを通すようネコ王はヨシヤ王に要請します。しかし、このまま彼らを通したら、彼らがアッシリヤを討ったとしても、今度は自分たちが支配されるだけではないか、とヨシヤ王は戦いに出ていきます。ネコ王の言っていたことを受け入れていたら死ななかったかもしれない。それが正しいかどうかは正直分かりませんが、ヨシヤ王は少なくとも祈る、エレミヤなどに祈りの要請をしてもよかった、しかしそれをせずに行動に出た結果、討ち死にするのです。

 

 

しかし、ヨシヤ王がしたことは結果としてエジプトとアッシリヤに大損害を与え、彼らの力をそぎ、最終的にエジプトもアッシリヤも力を失い、バビロンに最後は討たれる形となるのです。それゆえに正しかったかどうかは判断をつけづらいところになるのですが。そのバビロンによって捕囚はされていく事にやがてイスラエルはなっていきますが、しかし逆に彼らの民がその捕囚の中で神様の中にいることを知り、神様に立ち返っていく、回復していくその道を進むことになるのでした。

 

エレミヤを通して神様は、後の章での話になりますが、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。─主の御告げ─それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。─主の御告げ─わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。─主の御告げ─わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる」と語られました。

 

神様が彼らの繁栄を元どおりにする、たとえ彼らが食い物にされようとも神様がそこにいる、探し求めれば見つけ、呼び求め祈るなら神様は応えてくださる、確かにそこにおられるのです。私たちの目にはつらい中を通る時があるかもしれない、奴隷のようにとらえられたような苦しみの中にいる時があるかもしれない。しかし、そのような状態を↑の最初で神様が訴えているように神様は良しとはできないのです。さきほどのヨシヤ王の最後について触れた時に、エレミヤが哀歌を残したとあるように、神様はそのようにあなたが世の勢力、様々な問題、何より罪にとらわれていることを悲しまれるのです。だから神様はいのちある本当の希望、新しい命という将来に向けてその御手を伸ばされ、あなたを救おうとされるのです。

 

先程のヨシヤ王の戦死によって、エジプトはイスラエルに傀儡の王としてエホヤキムをたて、金銀を要求、国としては苦しみ、それこそ↑で「あなたの頭の頂をそり上げ」られるという、イスラエルの民にとっては屈辱を味わうことになります。実際にそり上げられていたかどうかは別として、彼らは神様の民としてのアイデンティティを失いかねない状態にあった、しかし、神様は「だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことか」というのです。今こそ神様に立ち返り、本当の命を、奴隷の霊ではなく、神様の霊を受ける、神様によって満ち溢れさせていただき生きよ、と。

 

そこで神様は私たちが世の奴隷、罪の奴隷として苦しみ倒れていく、死にゆく私たちを救うために、御子イエス様に私たちの恥を負わせたのです。その罪を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。神の御子であられるイエス様がその権威を一切を投げ出してでも。どんなに鞭打たれ、傷つこうとも、あなたを愛しぬかれ救い出すことを選ばれ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子として迎え入れられる。もう奴隷ではない、神様の子とされる、永遠の神様の家族として迎え入れられ、この恵みに生きることが赦された、新しい命が与えられた、与えられるのです。

 

私たちはもう神様から離れてはいけない。神様は私たちを奴隷としてではなく、罪人から神様の子へと回復させてくださったのですから。人となって仕え、命を投げ出してでもあなたを取り戻されたイエス様が今日、あなたと共にいることをどうか忘れないでください。世にあなたの魂を奪われ、剃り上げられるのではなく、イエス様の十字架によって神様の子とされた、この最大の愛のしるしをしっかり心に刻み、また神様の恵みが日々刻み建て上げられるこの新しいいのちのうちに、神様の御心が、完全なご計画がなることを祈るものでありたい。世の奴隷として恐れるのではなく、神様を恐れ求める、神様の愛をもって仕え、御国の到来を待ち望むもうではありませんか。