―今こそ救いの時― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。『ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。【神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。】…』」

使徒の働き2章14-21節

 

私たちは自分の年齢を考えます。まだ若いし、とか中年、もう年だしなどなど。それは自分で限界を決めているだけで、神様が造られた、いや神様があなたを生かされるこの命に限界はあるのだろうか。神様があなたを造られた、あなたは神様にとっては年寄りだの、まだまだ子供だの、そんなことはなくあなたは神様の大切な存在。御子イエス様のいのちをあなたの身代わりに与えてまで愛された存在、このいのち、神様から離れず、この恵みに生かされ歩もうではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれ、3日目によみがえられて後、天に昇られた後の話。イエス様の弟子たちやイエス様につき従っていた人たちなどが集まり祈っていた時、天から聖霊様が降られたのです。一人一人の上に。イエス様を呪いをかけてまで否定して裏切ったあのペテロの上にも、つい最近イスカリオテのユダの代わりに使徒に加わったマッテヤの上にも、12弟子ではなかった他の弟子たちも含め120人近くの人たちにも、聖霊様が彼らの上に注がれ、とどまるのでした。

 

そして彼らは今ここに集まっている様々な国のことばを話す人たちに向けて、イエス様の福音を、救いを語り始めるのですが、その前にこの驚くべきことが起こったのです。これを見た人たちは、こんな時間から酒にでも酔っているのか、という人もいたくらい、ありえないことが起こっていたのです。酒に酔っているのではなく、御霊に満たされた、今彼らの内には聖霊様が充満しているのです。ここでは、他国語を話し始めていますが、それだけが聖霊様に満たされた時に起こることではありません。

 

イエス様は、昇天される前に弟子たちに「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と語られました。上からの力を受けるのです。人の力が強化されるのではない、本来あるべき私たちの姿にイエス様の十字架と復活によって変えられた、そしてそこに神様の時別な息吹、霊、聖霊様が注がれその恵みに生きるものへ、神様の霊に生かされるものとなったのです。神様の霊が満ち溢れる、そこに特別な業が現れ、また愛が現わされる、時には預言だったり癒しだったり、様々です。特別な力を得た時が素晴らしいのではなく、神様が働かれる中に生きる、その素晴らしい特権に与らせていただけるのです。招かれているのです。

 

イエス様はさらに十字架にかかられる前、「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と仰られました。

 

実はこの聖霊様を受けた使徒たちが、聖霊を受けるように祈るとその人たちが異言(ある人は他の国のことば、もしくは、まったく人のことばとは違う言葉の場合もあります)を語り始めたのを見て、ひとりの魔術師がその「力」を求めて、「金で」それを買おうとするという事件がしばらくして起こるのですが、結局彼は力が欲しい、というだけで神様を求めていなかったのです。先程、聖霊様を受けるという事はただ力が与えられるという意味ではないことを申し上げましたが、本質的には、この神様のいのちが充満した、イエス様の十字架によって新しくされたいのちそのものに意味があるのです。そこに神様の御業が、驚くべきことが溢れるのですから。

 

ペテロは↑で、今旧約聖書の方で分かち合わせていただいています、ヨエルを通して神様が語られた言葉、「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる」という言葉を引用します。

 

それは、ある特定の人だけではない、それが裏切ったペテロ、イエス様の十字架の前に逃げ出した弟子たちも含めて、神様の霊が、愛が、御力が、聖霊様が降られることによって、降られて終わりではなく留まることによってあらわされた、まさに成就したのです。年齢などによって起こることが決められているように見えがちですが、そうではありません。神様はそれぞれに神様の御力が現わされるのです。御心が現わされるのです。はしためと言われている人にさえ。年長、人生経験方法、何か成し遂げた人にだけ注がれるのではなく、すべて神様を求める人の上に注がれる、そしてその霊によって私たちは生きるのです。悪霊やサタンの働き、世の力、権力などではない、神様ご自身が私たちにイエス様の救いによって開かれた天より注がれるのです。この命に生きる事にこそ意味があるのです。このひとは救われるに値しない、ではなく、むしろ彼らのために神様は天の窓を開かれたのです。

 

もちろん、神様がなされる大いなるわざを祈り求める、たたき続けることは大事です。しかし、自分がこうしたいからああしてください、こうしてください、ではなく聖霊様が満ち溢れる事、神様の御旨がなることを祈ること、私が生きるのではなく、イエス様のいのちにあって与えられたこの命、イエス様が我がうちに生き、働かれることを何より祈り求めるべきではないでしょうか。ヨエル書でも、またペテロのことばからも、またこの先実際艱難が様々な形で起こることが語られていますが、しかしだからこそ、私たちはイエス様の救いをいただきこれに生きる、このイエス様から、あの十字架と復活によって与えられたこの命を通して、この内に聖霊様が働かれ、聖霊様のお働きがさらに溢れ流れ、世の光として、この時代にあって輝くことを祈り求めたいものです。神様の驚くべき御力が、御心が溢れ、全ての人が本当の意味で救われる、聖霊様が注がれた、この御霊によって生きるものでありたいものです。

 

そしてペテロを通して多くの人にこの救いが語られたように、私たちもこの福音を語るもの、あきらめずに、あなたの隣人に仕え、また祈りるものでありたい。すべての人がイエス様こそ主と告白する、神様の救いに、永遠のいのちに与ることを祈り。