―その日― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。互いに押し合わず、めいめい自分の大路を進んで行く。投げ槍がふりかかっても、止まらない。それは町を襲い、城壁の上を走り、家々によじのぼり、盗人のように窓から入り込む。その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。」

ヨエル書2章1-11節

 

私たちが生きているこの一日一日にあなたは何を期待して過ごしていますか?いつもと変わり映えのない日々を過ごしていますか。今はゴールデンウイークですから特別に何かあるかもしれない、と何となく期待しているかな。でも明日は何があるか分からないし、と考える人もいるでしょう。私もそんな日もありますが、一つ確信していることがあります。それは今日も、明日も、神様がいるという事です。神様がいるから今日は、明日は素晴らしいのです。神様が一日一日をあなたに与え、迎えさせてくださる。この日は神様が造られたのですから。私たちは神様に期待することをやめてはいけません。神様があなたに与えてくださる一日一日を。今日、あなたは神様に何を期待しますか?

 

さて、↑は紀元前840-801年の時代、ヨアシュが南ユダを統治していた頃に南ユダに向けて、私たちに向けて、神様が預言者ヨエルを通して語られた言葉になります。ヨアシュの前の王アタルヤの暴虐から救い出された神様が変わらず共にいるから、今神様を覚えよう、と今訴えます。やがて来るイナゴとバッタ、世の様々な問題、罪、サタンにあなたの魂が食い尽くされる前に、立ち返ろう、と。神様が共にそれでもいる、神様の内に救いがある、だから神様を正しく恐れることを、「これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ」と自分もいつも覚えつつ、子孫、周りにも伝えるように、と仰られます。

 

なお神様はヨエルを通して「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない…」と語られます。

 

↑の箇所で、神様はもう一度イナゴの裁きを告げられます。それほど重要な話だからです。1章もそうですが、これは目の前に迫る脅威や問題だけで終わらず、終わりの時にくる最後の日、裁きの日に起こることについて告げられています。ここで「その日」とありますが、その日は1章や↑を見てもとても厳しい日になることが告げられています。決定的な日です。「このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない」日となるというのですから。

 

ただ、もし全員裁いて終わり、もう容赦しない、というなら、預言であらかじめ告げる必要はない、しかし神様はここで告げられるのです。終わりの日に起こることを。それは「その日」が、裁かれ終わる日ではなく、救われ、生きる日となる事を神様は願われているのです。もしかしたら神様は大目に見てくれるかも、と私たちは考えるのではなく、予め神様が語られている、今憐れみを示されている事、今終わりの時に向かうのではなく、今こそ生きてほしい、と神様はヨエルを通してまず訴えているのです。

 

今神様は「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ」と語られていますが、「わたしの聖なる山」で、ときの声をあげよ、というのです。神様の山なのです。これから起こる様々な問題、終わりの時にくる苦難困難、サタンの襲来などなど、終わりの時に起こることはかつてあった事では測れないほどの大困難が起こる、その時、わたしの聖なる山、神様に立ち返り、神様を求めることを訴えるのです。

 

それだけではありません。ここで「シオンで角笛を吹き鳴らし」とあります。実は神様はかつてイスラエルの民に、ラッパを吹き鳴らす事について、イスラエルの宿営を出発させる時など、人々を呼び集めたり、召集したりするときや、「あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす」ように告げられました。今、危機が迫っている時、一つとなって神様に祈り求める、互いに励まし合う、神様の御もとに集まり、神様と共に進むことを教えられたわけですが、その本質は、神様が教えられたことにあります。神様のご意思がある意味では告げ知らせられるのです。

 

まさにシオンで角笛を吹き鳴らすのは神様なのです。神様が、その日を告げ知らせるのです。今1章で見たようなあなたを食い尽くすイナゴ、侵略者たち、サタンとそれに与する者たちが襲い掛かってくる、と告げられる、そこで集まるべきところは?角笛を吹き鳴らされた神様のところです。主の集会、神様の山に、神様のもとに集まるのです。そこに救いがあるから。あなたが変える場所、救いの場、避けどころは、ここにあるんだ、と私たちに戸を閉ざして締め出す前に、招かれているのです。

 

正直な話、↑の「その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。互いに押し合わず、めいめい自分の大路を進んで行く。投げ槍がふりかかっても、止まらない。それは町を襲い、城壁の上を走り、家々によじのぼり、盗人のように窓からはいり込む。その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう」と聴くとあまりに恐ろしい。一糸乱れず、どんな妨害が入ってもびくともせず、前進し続け、家々の中にまで入ってくる、と。

 

自分にはここがあるから大丈夫、自分にはこの信仰する神がいるから大丈夫、という話ではないのです。あなたの拠り所としているものも打ち砕かれていく。自分は神様などいなくても大丈夫、と思っていた人たちも飲み込まれていく。本当に、神様ご自身が仰るように、誰がこの日に耐えられよう、というほどの日なのです。しかし、主の山、神様に立ち返る人は生きるのです。神様不在で死にゆくものではなく、私たちは神様のいのちにあって、愛にあって生かされる、その救いへ神様は今のような大変な時代、後に来る終わりの時、大患難時代が来る前にご自身のもとに招かれているのです。

 

今の時代、特に様々な災害や、悪魔の所業かといわんばかりな恐ろしいことが起こってきています。しかしまだ終わりの時は来ていない。神様が↑で仰られているように近い。けどまだその日が来ていない、神様は悪を行いませんが、神様もまた近いのです。今あなたの側にいる、その日が来る前にとあらかじめ語られ、角笛を吹き鳴らし招かれるのです。

 

イエス様はヨハネという弟子に、↑の宣告通り終わりの時に起こることについて、「第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。そのいなご…は、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという」と告げられます。

 

そう、神様は何度も何度も尽きることなくあなたに生きてほしい、と、昔語ったからもう知っているでしょう?と終わらせるのではなく、あなたに生きてほしい、と語られるのです。特に、↑のヨエルを通して語られる「軍隊」の出どころは、神様に敵対するもの(サタン、悪霊、サタンに飲み込まれサタンに与する者たち)であることが語られています。ただ言えることはこれらの主権は神様の内にある、それでも神様は最後の最後まで終わりの瞬間まで、それこそノアの洪水を起こす最後の最後まで立ち返る人を待っていたように、神様は逃れるその扉を開けて待っているのです。

 

あなたが罪、悪霊に飲み込まれるのではなく、神様の霊、神様のいのちによって生きる事を願われたのです。どんなに彼らがあなたを飲み込もうとしても飲み込めないよう、神様は救いのしるしとして、神様は御子イエス様をお与えになったのです。罪に飲まれ生きる私たちを救い出すため、私たちの罪を、その刑罰をイエス様に身代わりに背負わせ十字架に架け、死なせたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださった、そのしるしがあなたの内に刻まれるのです。

 

神様は1章で「これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ」と告げられましたが、まさに神様に造られたあなた方が、神様の子として生きるように、神様の福音、愛を告げ知らせてくださったのです。イエス様のいのちにあってあなたは神様の子とされた、そのいのちの内に今日私たちは生かされている、サタンの、世の勢力の力に翻弄されるのではなく、イエス様の愛、命に今日生かされている、このイエス様によって、一日一日生かされているのです。もう悪の勢力に支配されてはいけない。今日、神様の、イエス様にある勝利宣言、角笛が吹き鳴らされているのですから。私たちはこの神様のもとにいつも立ち返り、神様の御声に導かれ歩もうではありませんか。これがあなたを打ち倒すことはできない、あなたのその日は、神様の霊に満たされたもの、イエス様のいのちで、愛で満ち溢れたものなのだから。