いてくれてありがとう | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

私はここ数十年にわたって、ずっと「いてくれてありがとう」の重要性について語ってきました。その重要性について、間違っていないとおもっています。

 

でも、最近、もうひとつの言葉が、「いてくれてありがとう」についてこないと、バランスの悪い、状態が生まれるなぁと感じています。要するに誰かに「いてくれてありがとう」を言われたら嬉しいしまた、こちらからそれを伝えることができたら、嬉しいのですが、それだけの挨拶では「関係が育たない」のです。

 

そこで「いてくれてありがとう」と一緒に「わたしはここにいるよ」とか「わたしはいつでもいるよ」とか、いてくれてありがとうと一緒に「いる」という姿勢を保つことができないと不安が生じ信用できなくなってきます。

 

誰かに「いてくれてありがとう」を伝え、一緒に「あなたのためにわたしはここにいるよ」という思いだけでも伝えることができたら、そこに「関係が生まれ」いわば「共有できる場」が

生まれます。人間ですから、そこに居られないときもあるし、期待通りに対応できないこともありますが、それでも、最善を尽くして「わたしは、ここにいるよ」と言える関係が身近な誰かと

作れたら、きっと、その関わりは深くなると思います。

 

「いてくれてありがとう」を伝えはしても、あとはかかわりたくないので、自己責任でお願いしますとなったらこの言葉の意味は死んでしまいます。「いてくれてありがとう」そんな思いで私は「ここにいます」という伝え方を何とか学習し、広げたいものだと考えている…

 

ー関根一夫先生ー

 

あなたはいてくれてありがとう、な存在です。神様にとって、そして周りにとっても。

でも、それ以上に忘れてはいけない。神様があなたと共にここにいるよ、といつもそばにいて語りかけ、その命をかけてあなたと関係のあるものとなろうとされたことを。あなたもイエス様、いてください、私もあなたのそばにいたいです、と告白していますか?