―聖地― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。彼らのわざわいの日に、あなたは、わたしの民の門に、入るな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。あなたがたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう。しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する。ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家は刈り株となる。火と炎はわらに燃えつき、これを焼き尽くし、エサウの家には生き残る者がいなくなる、と主は告げられた。ネゲブの人々はエサウの山を、低地の人々はペリシテ人の国を占領する。また彼らはエフライムの平野と、サマリヤの平野とを占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する。イスラエルの子らで、この塁の捕囚の民はカナン人の国をツァレファテまで、セファラデにいるエルサレムの捕囚の民は南の町々を占領する。救う者たちは、エサウの山をさばくために、シオンの山に上り、王権は主のものとなる。」

オバデヤ書12-21節

 

○○の聖地、という言葉がよくつかわれます。東京の某シティなんて、祭典があればもう大賑わい。私の働いていたホテルなどもうてんてこまいだったのを覚えています。あま、その代わりに売り上げすごく跳ね上がるので大歓迎だったのですが。ただ、聖地ってもともとが聖地なのではなく、そこ人が祭り上げているイメージがあります。だからそこに行ったところで何かあるか、と言われたらどうなのでしょうね。しかし本物の聖地というのは人が祭り上げるものではなく、そこに神様が住まわってくださるからこそ聖地となるのです。そこから神様はいのちの泉を溢れ流れさせてくださる、命の川が流れるのです。私たちは神様を待ち望もう。

 

さて、↑はエドムに対する宣告として、神様が預言者オバデヤを通して語られた言葉になります。エドムは昨日も紹介しましたが、イスラエルの兄弟国でした。彼らはしかしイスラエルへの逆恨みが強く、彼らが祝福されていることをうらやんで彼らをいつも攻撃します(もともとは始祖のエサウが神様の祝福なんてあってもなくても同じくらいに考えていたせいもあって、ないがしろにした結果、長子の権利・祝福を失った)。しかし彼らは自分たちが神様に祝福されていること、守られていたことを忘れていたのです。

 

神様は彼らに多くの富と、広大な土地を与え、約束の地に帰還するイスラエルの民が彼らの土地を通り奪う事さえ神様は赦さず、守ってくださっていたのです。ところが、彼らはこれは自分たちの力で得たものだ、と誇り高ぶり、本来神様から与えられるはずの、神様の内にある恵みを失っている、それ故に、このまま他国に彼らは連れていかれる(バビロン捕囚)、彼らの誇っていたものを失うことになる、と警告し、だからこそ神様に立ち返り、本物の宝を得るようにと訴えるのです。

 

↑の前半部分は昨日も少し触れましたが、彼らに裁きが降るもう一つの理由として神様は語られるのです。オバデヤを通して神様は「あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。彼らのわざわいの日に、あなたは、わたしの民の門に、入るな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな」と語ります。

 

彼らのもう一つの問題は、自分たちの兄弟国である南ユダ(イスラエル)が苦しんでいた時、兄弟国という事だけで終わらず彼らは同盟を結んでいたのですから、彼らは助けるなり、一緒に戦うなりする必要があるのに、ただ眺めているだけ、しかも喜び、大口をたたき、財宝に手を伸ばしてそれを略奪し、またエルサレムから逃れたユダの人々を捕らえてバビロンに引き渡したのです。今こそ日ごろの恨みを晴らすべき時、と言わんばかりに。

 

しかし、彼らの人生を、またエドムを取り扱われるのも神様です。私たちは何か起こると、自分も裁かないと気が済まないと批判をしたり、攻撃したり、相手の心を奪い取るようなことをします。もちろん誰かを助ける人もいますが。しかし、私たちは神様に委ねる、という事を忘れてはいけません。神様が何かをする権利がある。神様が何かをなされる時に、そこに完全な神様の御業が現される。その神様が成そうとしている宝を私たちが奪い取って何になりますか。私たちが神様以上のことをできるのでしょうか。

 

じゃあ眺めているだけ?そうではありません。神様はエドムへの警告として「あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな」と仰られています。私たちは確かに誰かの「災難」といえる日と出会うことは多くはないかもしれない。でも、誰かが困っている時、一緒に考える、一緒に祈る、一緒にみことばを読む、できることはいくらでもあります。神様に委ねることが難しい状況にある人なら、一緒に神様と向き合う、その時神様はそこに宝ともいえる大いなることをなして下さるのではないでしょうか。問題の方に引き渡すのではなく、相手に君の○○がだめなんだ、と批判して終わるのではなく、一緒に神様のもとに向かう、その時神様は驚くべきことをなして下さる、そこに神様の栄光が現わされる。聖なる地へと変えられるのではないでしょうか。

 

人を赦すことだってそうですよね。赦すって人間にとってはなかなか難しい話です。ただ、イエス様は「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と仰られました。赦さないで終わるのはある意味では簡単なことなのかもしれない。でも、そこに何があるでしょう。逆に和解に一緒に向かうなら、神様の御心を、神様による回復を願うなら、そこに何が起こるでしょう。だから、神様は互いに許し合うこと、愛し合うことを教えられるのです、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と。憎しみ合いなさい、裁きなさい、裁き合いなさい、とはイエス様は教えなかった、神様に委ねることを教えられたのです。

 

苦難の日、私たちはどこに向かうでしょう。友の苦難の時、自分の苦難の時、どこに向かうでしょう。私たちの心はどこを向いていますか?神様はアサフという詩人が思い悩んでいた時、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」彼の祈りに応えられました。神様が呼び求めて良いよ、神様が助け出す、と約束されたのです。私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ、と神様により頼み立ち返る時、神様は「だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主であることを知る」と驚くべきことをなして下さるのです。

 

私たちはあきらめてはいけません。問題の前に立ち尽くして黙っているのではなく、神様に立ち返ろう。神様に委ねよう。自身の心を諦めというものに、サタンに引き渡してあなたを奪わせてはいけない。神様の宝を受けよう、神様の驚くべき御業を待ち望もうではありませんか。

 

神様はなおオバデヤを通して「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。あなたがたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう。しかし、シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する。ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となり、エサウの家は刈り株となる。火と炎はわらに燃えつき、これを焼き尽くし、エサウの家には生き残る者がいなくなる、と主は告げられた。ネゲブの人々はエサウの山を、低地の人々はペリシテ人の国を占領する。また彼らはエフライムの平野と、サマリヤの平野とを占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する。イスラエルの子らで、この塁の捕囚の民はカナン人の国をツァレファテまで、セファラデにいるエルサレムの捕囚の民は南の町々を占領する。救う者たちは、エサウの山をさばくために、シオンの山に上り、王権は主のものとなる」と語られます。

 

エドムにとって、今神様に立ち返らない彼らにとっての主の日は、裁きの日となってしまうことがここで宣言されます。彼らのしてきたことへの報いを受ける日が来る、と。さらに、「あなたがたがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も飲み続け、飲んだり、すすったりして、彼らは今までになかった者のようになるだろう」とありますが、これは終わりの日に起こる、神様の怒りの杯を飲む日が来る、という事です。しかし、神様は「シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。ヤコブの家はその領地を所有する」と仰られるのです。

 

この警告は非常に大きなものがあります。私たちは本来神様から恵みを受けたもの、昨日のタイトルを借りるなら、本来私たちは神様の宝物だったはずです。私たちが神様の恵みを失ってどうして生きることができるでしょう。私たちは自分のしてきたことへの報いを受けている場合ではありません。神様の恵みを求めないでどうしましょう。神様があなたに成される御心を求めないでどうしましょう。神様を求め続けるところに本来の報い、勝利があるはずです。どんな苦難の中にあっても神様が最後は勝利させてくださるとここで約束されているのですから、私たちは神様を求め続けるべきではないでしょうか。

 

私たちは神様の怒りの杯ではなく、神様の喜び、いのちの杯から飲み、生かされるのです。そのためにイエス様は私たちのためにいのちを惜しまず与えてくださったではありませんか。私たちの飲み干すべき神様の御怒りの杯を、神様は御子イエス様に飲まされ、私たちの罪の身代わりに十字架で罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人への怒りの杯は取り除かれ、私たちは永遠のいのちを受ける、聖なる山、聖なる地、神様の御国で恵みを日々頂き歩ませていただけるのです。神様がそこを所有地とされる時、あなたを神様ご自身の子とされる時、私たちはいのちを受けるのです。そこに神様の溢れんばかりの恵みが、回復が起こるのです。

 

イエス様の命がけの愛を受けた今、どうして私たちは神様の恵みを求めないでいられましょう。私たちは神様に主権をお返ししましょう。その時あなたのうちに聖なる主が住まわれ、そこは聖なる地へと変えられるから。私たちはただ眺めているものではなく、あなたの内に、この地に神様の恵みが溢れることを祈ろう。そこに満ち溢れるのはイエス様の命がけの愛。そのイエス様があなたのうちに働かれる時に私たちは神様の勝利を、栄光を仰ぎ見させていただけるのです。さてあなたは今日、イエス様に何を期待していますか。