―あなたは宝物だったはずでは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは主から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。『立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。』見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする。あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、『だれが私を地に引きずり降ろせようか』と心のうちに言っている。あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。―主の御告げ―盗人があなたのところに来れば、夜、荒らす者が来れば、あなたは荒らされ、彼らは気のすむまで盗まないだろうか。ぶどうを収穫する者があなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろうか。ああ、エサウは捜し出され、その宝は見つけ出される。あなたの同盟者がみな、あなたを欺き、あなたを国境まで送り返し、あなたの親しい友があなたを征服し、あなたのパンを食べていた者が、あなたの足の下にわなをしかける。それでも彼はそれを悟らない。その日には、―主の御告げ―わたしは、エドムから知恵ある者たちを、エサウの山から英知を消し去らないであろうか。テマンよ。あなたの勇士たちはおびえる。虐殺によって、エサウの山から、ひとり残らず絶やされよう。あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。彼らのわざわいの日に、あなたは、わたしの民の門に、入るな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。」

オバデヤ書1-14節

 

隣の芝生は青く見える、といいますが、どうしても私たちは人の良いところに目が行って自分がどれだけ祝福されているのかに目がいかないところがありますよね。もちろん、他の人の素晴らしいところはたくさんあるでしょう。しかし、あなた自身がどれだけ神様に愛されているのか、これを忘れてはいけません。私たちが当たり前と思っている中でも神様はいつも恵みを注がれる、私たちを愛し、導かれているのです。私たちは神様ご自身に目を向けましょう。神様があなたに広げてくださったいのちを喜び歩もう。

 

さて、↑はイスラエルの民と兄弟国、イスラエルの兄エサウの起こした王国エドムに向けて神様が預言された、短い預言ではあります。これは諸説ありますが、おおよそ南ユダ王国がバビロン帝国に捕囚されていくその前後の帰還に語られたのではないか、と言われています(BC586前後)。もしくは北イスラエルを堕落させたアハブ王とその妻イゼベルの時代ではないか(BC848-840)と言われています。

 

正直な話が、彼が何者なのかは分かりません。ただ、彼はそんなあまり知られていない、どうせ自分が語ったところで何にもならないだろう、とは考えずに、神様から導かれたことを忠実に語りました。これまで見てきた預言者たちと違って、国の中で仕える立場ではありません。もし、堕落させたイゼベルの時代にこれを語ったのなら彼は死を覚悟しなければいけなかった、またバビロン捕囚前後なら、もう彼を支えるものさえいない可能性もあったのです。しかし、彼はどうせ滅びゆく民に語っても意味がないとは考えず、神様の愛を受けてほしい、救いを得てほしい、と願い、神様の語られるままに語ります。

 

どうもタルムードという書物によりますと、オバデヤという人は↑で預言される対象となっているエドム人出身だったそうで、エドム人からユダヤ教へと改宗したようなことが記されています。彼は神様と出会い、その恵みを知り、その恵みを同胞にも受けてほしい、と奮い立たせたのです。

 

↑で神様はオバデヤを通して、エドムについて「立ち上がれ。エドムに向かい戦おう」と、今語ります。エドム、これまで様々な預言書や聖書の書簡の中で触れてきましたが、彼らはイスラエルの兄弟国でした。本来エドム(その始祖はエサウ)は長子の権利を持っていた、神様の祝福を受けるはずのものだったのですが、彼はその権利を蔑ろにし、レンズマメスープ一杯と引き換えにその権利を弟に譲るのです。どうせ後でどうにでもなるだろうと思ったのか。しかし、祝福が弟ヤコブに行くとわかると彼を逆恨みし、命を狙い始めます。しかし、それより20数年後、エサウ自身も長子いう名の祝福はなくとも神様の恵みを受けていることを知り、一度はヤコブと和解するのでした。

 

ところが、自分についてこないヤコブをやはり赦すことができず、ここから敵対の歴史が始まります。エサウはさらにイスラエルの別な兄弟国イシュマエル一族と手を組み、徹底的にイスラエルに対抗します。彼らが祝福されていることをうらやんでいたからです。彼らは神様から愛されていたことを忘れてしまった、目に見えるものだけを求め、それに固執するあまり、神様に愛されていない、捨てられたんだ、とどこかで根に持っていたのです。

 

彼らの姿について、「あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、『だれが私を地に引きずり降ろせようか』と心のうちに言っている」と神様は語っていますが、自分が主権者であり、神様が自分に良いものを与えるのは当然、与えない神など神ではない、そのような部分が彼らの内にいつまでも残り続けていたのです。

 

      

 

神様は、実は彼らの土地を守られていました。彼らに神様が天然要塞のように安全な場所を与え、なおイスラエルの民がエジプトから約束の地に戻ってくる際、彼らの土地を通ってはいけない、と神様がエドムの地を、エサウから奪わないように守ってくださっていたのです。しかしこれは自分たちが受けるべき当然のもの、と神様の恵みを恵みと思っていなかったのです。

 

彼らは、誰が自分たちを地に引きずりおろせようかといっていますが、私たちはこの神様が与えてくださっている恵みから自ら離れ、降りて生きられるでしょうか。神様が私たちの衣食住となり、神様が全てを養ってくださっているのです。神様は引き上げてくださる方ですよ?神様は私たちに全ての良いものを与えてくださっているはずです。

 

しかし、それらは受けて当然で、自分を満足させないなら、自分の満足いくものを与えないなら、それは神様が悪い、と彼らは言いますが、それはもう神様を神様とみていない。神様は「立ち上がれ。エドムに向かい戦おう」と↑で仰られていますが、そもそも彼らが神様に立ち向かっているのです。そして自分たちを恵まない神なら、自分たちで好きにしよう、と神様に立ち向かうのです。しかし、私たちが神様に立ち向かって何になるでしょう。そして自分の好きなように生きて、好きなものだけを得て生きたところで、それはいつかは失われていく事は生きているとわかることではないでしょうか。

 

神様はここでエドムに決定的な宣言を、一方では神様に立ち向かうことをやめる時何が起こるのか「あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。―主の御告げ―盗人があなたのところに来れば、夜、荒らす者が来れば、あなたは荒らされ、彼らは気のすむまで盗まないだろうか。ぶどうを収穫する者があなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろうか。ああ、エサウは捜し出され、その宝は見つけ出される。あなたの同盟者がみな、あなたを欺き、あなたを国境まで送り返し、あなたの親しい友があなたを征服し、あなたのパンを食べていた者が、あなたの足の下にわなをしかける。それでも彼はそれを悟らない。その日には、―主の御告げ―わたしは、エドムから知恵ある者たちを、エサウの山から英知を消し去らないであろうか。テマンよ。あなたの勇士たちはおびえる…」と語られます。

 

高い地位も、自分が全てを握っていると思っていたもの全てはやがて奪われ、荒らされ、大切にしていた宝は失われていく、見つけ出されていく。これまで同盟を結んでいたと負っていた人たちは離れていく、パンを食べられない…ありとあらゆるものを失っています。テマンというのは、先祖から続く地者がいるところです。自分の方法が正しい、知恵ある方法だと思っていたことが全て引きずりおろされる。奪われていく。神様から離れ、世の好き放題にされた、神様の霊から離れ、世の霊があなたを支配し苦しめ、奪っていく。でも本来は神様にとってあなたは宝の民、親しい友云々とありますが、神様にとってはあなたは親しい友なのです。

 

神様はむしろ、神様の知恵、愛、いのちがあなたを覆われる方です。本来は神様の完全な守りのもと住まわせて下さり、いつかは失うたかではなく、神様の尽きない恵みがあなたの宝のように満ち溢れ、多くの実を結ばせてくださるのです。本来エドムのように奪われ、失っていくだけのものではなく、日々恵みのパン、飢え渇くことのない命のパンで私たちを満たしてくださる。イエス様ご自身があなたのうちに住まわれ、その愛で、恵みで満たしてくださるのです。

 

神様は、↑でエドムに「他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。彼らのわざわいの日に、あなたは、わたしの民の門に、入るな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな」と、彼らが兄弟国・同盟国でありながら、南ユダがバビロンによって捕囚されているのをあざ笑い、眺め、助けもせず、かえって喜んでいた彼らを警告、裁きの理由として挙げられましたが、むしろ神様は私たちがそのように奪われていく事を眺めて何もしないのではなく、先ほど申し上げたように回復させるために、あなたを罪、死の手から、サタンの手から取り戻すために、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に架けて罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる。罪人としてではなく、親しい友と呼ばれ、あなたをご自身のもとに引き戻してくださるのです。

 

神様はあなたが災難の日を迎えることを良しとしません。神様は、もう終わったからと語るのをやめるのではなく、今日、あなたが恵みの日を得てほしいとその恵みの御手を伸ばされています。何にも代えがたいイエス様という宝をもってあなたをもう一度回復させたいと呼びかけられているのです。もう私たちは神様と争ってはいけない、むしろこのイエス様のいのちを持ってまで愛することを選ばれた、神様の御前にひれ伏し、そこまでされた愛から神様があなたに成そうとしていることに大いに期待しようではありませんか。同胞のためにあきらめず、神様の御言葉を語ったオバデヤのように、私たちも、あきらめず、神様の愛を、御心を、神様ご自身を求め続けようではありませんか。