―鹿のように・一滴の水を求めて― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間。私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。私は、わが巌の神に申し上げます。『なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。』私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、『おまえの神はどこにいるのか』と私に言っています。わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」

詩篇42篇1-11節

 

神様に希望を求める人は意外に多い。どんな宗教の人であっても、無神論者でも、何かしらの形で人は祈る。ある人はパワースポットめぐりだったり、神社に行ったり。でも、他にもある選択肢の一つ的にしか見ておらず、そこにいのちを求めに行かない。神様を信じることはそんなに大した事が無いように思うから。でも、真の神様を信じる事は、はたから見て小さな希望に見えても、それは永遠のいのちを、祝福をあなたにもたらす。顔を挙げ、主を見上げよ。主はあなたのためにいのちをもたらされる。

 

さて、↑はバビロン捕囚にあったあるイスラエル人が歌った詩。恐らく学者エズラではないか、と言われています。この詩を歌ったエズラは神様に希望を抱きながら捕囚から解放される日を迎えた、まさにこの信仰の告白の歌が成就したいや神様がさせてくださった。ただ、↑に見るように、神など信じて何になる?と馬鹿にされ、骨骨を打ち砕かれるほどの絶望下で歌ったものです。

 

私たちも世の中を歩んでいるとそんな日はいくらでもある。災害もそうだし人間関係、職場関係。様々。問題の大小は人それぞれ感じ方が違う。一概にこれは軽い話とか軽々には言えないでしょう。クリスチャンだから苦労がない、というわけではなく神様がこの私に介入してくださっている事、神様がここに置かれ、神様が助け手となる人を置いてくださっている。本当に感謝です。

 

と話は↑の詩に進めて。鹿が谷川の流れを慕う、というと大自然の中の水のあふれるところで、水をごくごく飲むイメージを持ちますが、実はとんでもなく、この詩が歌われたのはイスラエルです。イスラエルは雨季には水であふれ返っていますが、乾季になるとまったく水がかれてなくなってしまいます。

 

しかしそれでも、川の底にわずかに残る水を鹿は慕い求めます。なぜだと思います?それは、鹿はのどがかれるとのどの粘膜がくっつき、呼吸できなくなってしまうのです。だからこそ、同じように水を求めて近寄ってくる肉食動物がいても、危険ながけを降りてでも、命がけでこのわずかに残る水を求めるのです。

 

そういう背景の中で詩人は、『鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます』とうたいます。詩人はバビロン捕囚にあって、神様など誰も信じていないような異国の地に連れて行かれ、さらにはお前たちの神はどこにいるんだ?と馬鹿にされ、嘲笑されていたのです。それこそ『私の涙は、昼も夜も、私の食べ物』であるほどに。一日中涙を流しながらも、この苦難は去らない。

 

そんな中彼は、まるで磁石に引き寄せられるかのように神様を求めて慕います。先ほどの鹿の川の底にわずかに残る水を鹿は慕い求めるように、このたった一滴の水を求めて。鹿にとって水が死活問題であるように、希望のこの一滴の水、神様を求めて彼は神様に呼び求めるのです。心を注ぎだして、主よ助けてください!そう祈ったわけです。そんな危険を犯してまで、どうなるかもわからないのに神なんて信じてどうする?と1適のその水に価値を見出さないで眺めている、つぶれて行くのではなく、そこにいのちがあると確信して崖を降りて行く、神様に叫び求めるのです。

 

鹿はなぜそんなに危険を冒してまでなぜ水を探しに行くのだろう?それはそこに水がある、だから谷底を降って降りていくわけです。たった一口の水を求めて。詩人も同じなんです。かつて神様の守りの中栄えたイスラエルの王国、人でにぎわったあの喜びの日々、祭りでにぎわっていたあの日々、そうだ、神様がイスラエル王国を、私たちを守ってくださっていたではないか。この神様が助けてくださらないはずがない、私を見捨てられるはずがない、ああ、主よ、そう呼びかけるわけですね。そうだ、もう何をうなだれる必要も、思い乱れる必要もない。主が私のいのちを救う一滴の水を与えてくださる、そう確信しているのです。

 

先ほど、磁石に引き寄せられるように彼は引かれていった、と言いましたが、本当にそういう文章で原語の意味はなっているんですよ?磁石に引き寄せられるには引き寄せる側が必要です。神様はあなたを見捨てない。あなたを引き寄せられる。あなたを愛し、あなたをいとおしく思うから。あなたを守るために。

 

「鹿のように」という賛美があります。「谷川の流れを慕う鹿のように、主(神様)よ我が魂、あなたを慕う。あなたこそ我が盾、あなたこそ我が力。あなたこそ我が望み、我は主(神様)を仰ぐ」と。まさに私たちがこの神様に引き寄せられ、ここに近づく時、立ち帰る時、神様は私たちの楯となり力となってくださるのです。神様を信じる事はわずか一滴しかないように見える、価値が小さく見えるかもしれない、でもここにいのちがあるのです。

 

神様の力の及ばないところはない。神様は、私たちが神様から離れ、好き勝手に生き、こんな水等飲んで何になるだろうと離れて行ってしまった。私たちの内に水は失われて行った。でも神様は、御子イエス様を遣わして私たちが神様の元に帰れるよう、その磁石の役割とイエス様をされた。イエス様を私たちの罪の身代わりとされ十字架で身代りに罰せられ死なれた。私たちのあらゆる重荷、痛み、悲しみ、何より罪の代価を背負わせ。しかし復活と共にあなたをその罪の底、暗闇の底からあなたの魂を、まるで磁石のごとく引き上げてくださり神様の元に引き上げてくださった、神様の子として迎え入れてくださったのです、あなたがイエス様を救い主として信じ悔い改めるならあなたはもう神様のもとされる。これは一滴の水どころじゃない、その小さく見える価値、しかしそこには永遠のいのち、恵みが溢れているのです。あなたに命がけの愛をもって、十字架からご自身の御を引き裂いてでも渇くこのない命の水、永遠のいのちを、あなたに注がれた、与えられたのです。あなたが生きるために。

 

あなたの人生にはどんな水があるでしょうか。神様は、↑にあるように私たちの救いの巌となり命の水を溢れさせて下さった。このイエス様のいのち、恵みによって、金よりも、銀よりも心を満たす喜びがあなたの内に湧き上がってくる。あなたの友、あなたの兄弟となってくださるイエス様が、あなたと共にいる、一人じゃない、イエス様があなたの友となってあなたとともにいるのだから。この神様の恵みをたった一滴と捉えるか、それとも最高の恵みとして受け取りに行くか?あなたはどちらでしょう?金よりも銀よりも価値のある一滴に水を、いや溢れんばかりの恵みを今日受け取りに行こう。

 

(本当は今日はあもししょの最後の箇所を分かち合う予定だったのですが、体調不良のため、過去の御言葉の分かち合いを分かち合わせていただきます。私も完全な癒しを神様に求めます。あなたの上にも神様の素晴らしい恵みが注がれますように…)