―今こそ一つとなる時― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」

使徒の働き2章1-4節

 

今世界で使われている言葉は、大体6900だそうです。ネパールでは120以上の言語が、パプア・ニューギニアにいたっては840以上の言語があるそうです。オーストラリアにも、原住民の言語を入れると、270以上の言語が存在するそうです。まあそれゆえにお互い話の通じない関係もあるのですが。ただ、全部が全部ではありませんが、相手のことを理解しようとすれば、色んな方法で意思疎通はできます。最近はアプリなどでそんな機能もありますが。一方で相手の言っていることを理解しようとしなければ、本当の意味で通じ合うことはできません。神様は私たちに多くの愛を語り、示され、驚くべきことを日々なして下さっている、それを私たちはどう受け取っているでしょうか。あなたに生きてほしい、と日々語り導かれる神様の声を聴こうとしているでしょうか。私たちは、私たちに生きてほしい、と語られ、導かれている神様がいるという事を覚え、御子イエス様のいのちを惜しまず与えるほどに愛される神様の御子絵に信頼し歩みたいものです。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を33年近くにわたり歩まれた後、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれた、そして3日後に復活し、後、天に昇られた後の話です。そのイエス様の復活から50日が経ったとき、↑の出来事、「突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」という出来事が起こりました。

 

これを見るとびっくりですよね。しかし、この日は本当に特別な日だったのです。もともと、旧約の時代と言いますか、イスラエルの民がエジプトに400年近く奴隷としてとらえられていたところを神様が救い出された、その道中で一つの約束をされたのが、↑で語られている五旬節というお祭りなのです。だから人々は集まっていたのです。

 

その時神様が定められたのは、過越しの祭りという、エジプトから救い出されたお祝い、後には罪の奴隷から救い出されるイエス様の十字架と復活を預言する、その祭りを神様が定められたのですが、そこから7週間を数えた50日目、それが7週の祭り(五旬節)と言われ、今はペンテコステと言われています。ちなみに2024年の今年は5月19日です。復活節(イースター)が3/31だったので、そこから数えて7週目の最初の日曜日を指すので。

 

この日は「神様が定められた祭りの日」なのです。先程、過越しの祭りというものが、神様の預言、約束を含んだものです、と申し上げましたが、ここにも神様の約束が含まれているのです。このお祭りについて、神様は「あなたがたは、(過越後の)安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。あなたがたの住まいから、奉献物としてパン─主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの─二個を持って来なければならない」と定められました。

 

2つのパンというのは、それまでユダヤ人と異邦人、と分けられていたものが、今神様の御前に持ってこられ、1つとなる。すべての人への救いの時が来た、という宣言なのです。物理的に遠く離れていてイエス様に会うことができなかった人たち、だけではありません。神様から離れてこの世にあって望みもなく、神もない人たち、その人たちをも今イエス様の御名によって、あの十字架と復活によって1つとされる、神様の家族として1つとされるのです。あなた方は罪人だから受け入れない、もうどこかへ行ってしまえ、ではなく、神様はその罪あるものを祭司・イエス様のところに持ってきて、これを聖めて、宮、神様のもとに招き入れてくださったのです。

 

その時、「天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」という出来事がまさに起こったのです。どこかから風がたまたま吹いてきたのではない、天から、神様のご意思のもと、この不思議な出来事が起こったのです。神様が、彼らの家、魂を響かせ、風、といいますか神様の霊という言葉なのですが、その神様の霊が彼らの内に満ち、震わせたのです。

 

ここで出てくる風も、炎も、聖霊様という、イエス様が約束された新しい助け主を象徴する言葉です。その働きを現すものですただ救われて終わり、招いて終わりではなく、神様はここで聖霊様によって、その息吹によってあなたを生きたものとされた。あなたの魂を、あなた自身の内を聖霊様で満たし、その働きが、あなたの内に響き渡るのです。満たされる。炎の舌が彼らの上にとどまったように、神様の愛は、そのあなたへのご意思は、まさにとどまり続けたのです。留まり続けるのです。

 

↑では他国の原語を話し始めたといいますが、聖霊様を受ける時与えられるのは、それだけではありません。もちろんそれも一つです。ここでは、その一つが現れているにすぎず、神様は驚くべきことを聖霊様を通して成されるのです。ちなみに、聖書にしるされている聖霊様の賜物としては知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言(様々な異言)、異言を解き明かす力などがあります。ただ、私たちが見えていない、知らないだけで神様はカテゴライズされた以上のことを日々なされています。

 

イエス様は私たちを救って終わりではなく、今神様の子として私たちを迎え入れられ、1つとされた、後は好きにして、ではなく、神様のご意思、その愛は今日もあなたに注がれ、あなたの内に、またあなたの周りに響き渡らせています。私たちが↑で見るような驚くべきことを今日もなされています。

 

かつてはイエス様を迫害するもの、しかしイエス様が出会ってくださり罪赦されて聖霊様を受けたパウロは「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。…私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」と語られました。

 

今やイエス様の十字架と復活によってその隔ての壁は壊され、敵意は破棄され、今神様の驚くべきお働きが、聖霊様のお働きがあなたの内に注がれている。イエス様のいのちを持ってまで変えられたこの命の関係が、平和がここにある、また広がっていくのです。今私たちはこの敵意が破棄され語られる、働かれている聖霊様のことば、なされることに目を、心を留め、共に歩ませていただこうではありませんか。そこに響き渡る大いなる聖霊様のお働きに期待して。