―あなたがどうしても必要なんだ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。『兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真っ二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)実は詩篇には、こう書いてあるのです。【彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。】また、【その職は、ほかの人に取らせよ。】ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。』そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。そして、こう祈った。『すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。』そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。」

使徒の働き1章15-26節

 

少子化のこの時代、働き手、後継者不足があっちこっちで見られます。まあ教会でも似たようなことが見られるのですが。ただ、じゃあ後継者がいないから誰でもいい、というわけにもいかないですよね。ただじゃあ選ばれなかったから見捨てられたのか、と言われたらそうではありません。だって、その一人だけでその組織はできるわけではなく、それぞれにそれぞれの役割があって成り立つのです。私たちは神様にあって与えられた命に今、生きています。だから私たちはこの神様に期待し、神様がこの生涯を導いて下さる事、栄光を現されることを切に祈りたいものです。

 

さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架に架けられ、罰せられ死なれ、3日目によみがえられたのち天に昇られた、その後の出来事です。イエス様が約束された新しい助け主なる聖霊様が降られる日を祈り待っていたイエス様の12弟子(そのうちの一人、イスカリオテのユダはイエス様を裏切り、その後悔の念から自殺してしまったので今は11人)と、女性たちなど120人ほどの人は共に祈っていました。そのような中で、ペテロはその欠けてしまった1人を加える必要があると導かれ語り始めます。

 

そもそも12弟子というのはイエス様が祈り、決断された人たちです。イエス様について行った人たちは多くいますし、特別に12人を選任されていましたが、それとは別に70人ほどの弟子たちもいました。今の時代ですと、任命責任は?とか言われそうですが、もしイエス様がイスカリオテのユダを選ばなければ、彼の裏切りがなくなることになるので、十字架そのものがなくなってしまいます。ただイエス様はユダの裏切りを知らなかったわけではありません。むしろイエス様は分かっていても最後までユダにも、愛を注がれたことをルカによる福音書の分かち合いの中で触れました。また、他の12弟子の一人も同じように証言しています。

 

ペテロはここでイスカリオテのユダの裏切りについて言及していますが、ふとこれをよみながら思ったことは、よくそんなことを言えたもんだ、ということ。彼自身、イエス様と一緒に牢でもどこでも行きます、と言っていたのに、いざという時に彼は恐れをなして裸で逃亡し、挙句の果てにイエス様について行っていた弟子じゃないか、と言われると3度にわたってイエス様など知らない、と否定し、3度目に至っては呪いをかけてまでイエス様を知らないと否定した男です。まあ他の弟子たちも逃げ出していたわけですが。

 

イエス様はそれでも彼らのために十字架にかかる必要があったのです。裏切られたからやめる、という選択肢はイエス様にはありませんでした。十字架から降りれば信じる、と罵られても最後まで十字架からおりませんでした。それは私たちが都合のいい時だけ神様神様、と言って、いざとなれば自分の保身に走ったりする、自分の好きなように生きる私たちを本物の神様の恵みの内に、罪から解放し、永遠のいのちに招くために十字架にかかる必要があったのです。彼らを見捨てるのではなく、救うために。

 

そうしてイエス様の十字架と復活によって罪赦された人たちが今集まっているのです。誰が優れている、とかそういう差異はありません。裏切り者の2トップだったうちの一人、ペテロが今かけた12弟子(使徒)の補充を訴えるのは、もちろんこの先教会の中心を担っていく人、支える人、遣わされイエス様の福音、救いを告げ知らせる人を選ぶという意味合いもあります。ただ、この先少しすると、パウロという人が「使徒」として加わります。他にも預言者とか、執事とか、教師とか、様々な役割が出てきます。使徒だから特別なのではないのです。それぞれの役割がある、それぞれの役割の一翼を今、祈り選んだだけなのです。

 

むしろ、彼らの中心であった使徒たち、そのリーダー格であるペテロに至ってはイエス様をとんでもない形で裏切った人です。しかし、彼らは今イエス様と再び出会って悔い改め、赦された、その恵みの中にいるのです。それはここにいる11人だけではなく、他の120人近くの人たちも同じです。ユストというヨセフと、マッテヤ、彼らのどちらが優れているか、ではなく、むしろこの120人近くの人も含めて彼らは今一度イエス様の救い、罪の赦しを覚え、この究極の神様の愛に生きるその恵みに改めて招かれているのです。そしてこの愛の中、いのちの中、どう生きるのか、と。その役割をここではマッテヤには使徒、とされただけです。ちなみにユストはその後も弟子としてその役割を全うしていきます。諸説によりますと、反対者達の挑戦に応じて蛇の毒を飲み、害を受けなかったそうです。それほどにイエス様の新しくされたいのちを、喜び信頼し歩み続けたようです。

 

さて、あなたはこのイエス様の罪の赦しを受けたもの、神様の子として招かれたことを今日、どれだけ自覚しているでしょうか。ペテロたちは自分たちは特別なんだ、というわけではなくむしろ、自分たち裏切り者の急先鋒にいた者たちにさえ、イエス様は現れて、見捨てて裁くのではなく、悔い改めに導かれ、罪を赦してくださった、新しい命へと招いてくださったことを自覚し、これに今踏み出します。これまでの恐れに支配されていた頃とは違う。

 

聖書の約束、預言、ユダの裏切りがあって、ペテロの裏切りがあって、それでも愛を貫き全うされた、このイエス様にあって今私たちのいのちはあるのです。あなたがどうしても必要、大切だから、と失われる事よりも愛されることを選ばれたイエス様が、今日あなたに愛を注がれている。この赦しをあなたは受け取っていますか?神様の御心によって新しい使徒が選ばれましたが、あなたにも神様の御心が注がれ今日あなたは生かされている事を覚えようではありませんか。

 

あなたにはあなたの役割がある。どうしてこんな日々が?とくさる、考えるのではなく、あなたに注がれた神様の愛を覚え、祈りながら、導かれながら歩もうではありませんか。イエス様は、イエス様こそ道であり、真理であり、いのちなのです、と仰られていました。このイエス様の開かれたこの道、いのちの内を、イエス様の真理が、御心が全うされることを祈りつつ歩もうではありませんか。