―本当の意味で安らかに生きたい― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「ああ。シオンで安らかに住んでいる者、サマリヤの山に信頼している者、イスラエルの家が行って仕える国々の最高の首長たち。カルネに渡って行って見よ。そこから大ハマテに行き、またペリシテ人のガテに下って行け。あなたがたはこれらの王国よりすぐれているだろうか。あるいは、彼らの領土はあなたがたの領土より大きいだろうか。あなたがたは、わざわいの日を押しのけている、と思っているが、暴虐の時代を近づけている。象牙の寝台に横たわり、長いすに身を伸ばしている者は、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている。彼らは十弦の琴の音に合わせて即興の歌を作り、ダビデのように新しい楽器を考え出す。彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗るが、ヨセフの破滅のことで悩まない。それゆえ、今、彼らは、最初の捕らわれ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる。」

アモス書6章1-7節

 

人生楽しい時もあればつらい時もある、色々あっても平穏無事で生きたい、それが私たちの願うところでしょう。それを保証するのは何か。誰か。私たちはそれを求めますが、なかなか得られず。しかし神様は私たちを喜び平安を与えてくださる。神様にある楽しさ、喜びで満たしてくださる。本当のいのちあるものへと変えてくださる。私たちの苦しみあえぐ声を、喜びの歌声に変えてくださる。私たちは神様に帰ろう。神様はあなたを迎え入れてくださるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。ただ裁いて終わりとするのではなく、彼らが選びの民、大切な、愛する子ゆえに見捨てられない、死にゆくことがないように、あなたに生きてほしい、と。それゆえにさ迷い歩く迷子の羊を命がけで捜す羊飼いのようにあなたを探しに来る、その正義を、愛を曲げることなくあなたへの愛を貫き通される、と神様はアモスを通して訴えてこられました。

 

なお神様はアモスを通して「ああ。シオンで安らかに住んでいる者、サマリヤの山に信頼している者、イスラエルの家が行って仕える国々の最高の首長たち。カルネに渡って行って見よ。そこから大ハマテに行き、またペリシテ人のガテに下って行け。あなたがたはこれらの王国よりすぐれているだろうか。あるいは、彼らの領土はあなたがたの領土より大きいだろうか。あなたがたは、わざわいの日を押しのけている、と思っているが、暴虐の時代を近づけている」と語られます。

 

ここでいくつか地名が出てきますが、シオンは分かりやすく言いますと南ユダ王国を指していると言えばわかりやすいかもしれません。サマリヤについてはこれまでもこのアモス書で書いてきましたが、このヤロブアム2世の時代の北イスラエルの首都になります。まあ北イスラエル全体を指しているといってもいいかもしれませんが。彼らは自分たちが平穏無事、安らかに住んでいると思っていました。南ユダのウジヤ王も含め南北ともに繫栄しているから、と。まあ北イスラエルは貧富の格差があったり、貧しいものが虐げられる、不正がはびこる、など、本当の意味で繁栄、栄えているわけではなく、国として平穏無事、皆が安らかに住める国かと言われたらそうではなかったわけですが。

 

彼らは大きな勘違いをしている、ということを神様はここで指摘します。彼らは自分たちが「行って仕える国々の最高の首長たち」である、と驕りたかぶる、自分たちが優れていると考えていました。そこで神様は「カルネに渡って行って見よ。そこから大ハマテに行き、またペリシテ人のガテに下って行け。あなたがたはこれらの王国よりすぐれているだろうか。あるいは、彼らの領土はあなたがたの領土より大きいだろうか」と告げられるのです。カルネや大ハマテは現在でいうところのシリヤに該当します。そのシリヤもペリシテも、自分たちを誇り、国の領土もイスラエルよりも広い(イスラエルの領土はおおよそ四国くらいの大きさと思っていただければわかりやすいかもしれません)もアッシリヤによって攻められます。ただイスラエルは自分たちは彼らよりも優れているのだから大丈夫なんだ、と驕りたかぶるのです。

 

ただ問題の本質は周りの国の領土の問題ではありません。神様を求めているか、そこにあるのです。シリヤにしてもペリシテにしても、神様から離れ、好き勝手に生きていました。彼らの領土は確かに広かったかもしれませんが、しかしその彼らの繁栄もついにはアッシリヤによって滅びるわけです。どんなに領土が広く富んでいるつもりでも、本来の富は神様からくるものであり、繁栄は神様のいのちが溢れるところにあるわけです。ですから、いつかは失われていくのです。神様のなされることをよく見なさい、と今アモスを通してイスラエルに訴えているのです。だからこそ、神様に帰るように、と。

 

神様は脅しで「あなたがたは、わざわいの日を押しのけている、と思っているが、暴虐の時代を近づけている」と仰られているのではない。自分たちの力で暴虐の時代、災いを退けていると思っている彼らに、そうではない、神様がこれまで守られてきた、その神様に今一度帰ろう、あなたがたが命を失う、アッシリヤの暴虐に、世の思い煩い、勢力、罪、サタンによってあなたの魂が、神様から与えられたいのちが、恵みが奪い去られることがないように。

 

思い返してみますと、ソロモンの時代、まだ古代イスラエル王国が分裂する前ですが、ある意味で栄華を極めていました。イスラエルのように各国との平定や諸外国からの表敬訪問が多くあありました。その富は諸外国の耳に届き、一度は見てみたい、と。エルサレム神殿の栄光あふれる姿を。

 

しかし一方で、ソロモンは自分の栄華を見せるために自らの宮殿を建てる際に貧しいものを奴隷にし、また重税を民に課すことで苦しめ、そこから解放してほしい、と願っていた民が多くいた(結局彼らのその苦しみ、不満が王国分裂の原因の一つとなりました)ほどでした。また、神様には一応は仕えてはいたものの、奥さんと妾合わせて1000人の顔色をうかがうために、彼らの持ち込んだ偶像の宮を建てるなど、神様を軽視するように、彼の治世後半はなっていきました。そして彼ゆえに王奥派分裂することとなるのです。

 

しかし、彼の知恵がなぜ優れていて、なぜ富を得ていたのか。すべては神様からきていました。彼が王となる時、神様はソロモンに、何を願うか問われたことがあったのですが、「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう」と約束されたのでした。

 

ソロモンは、自分の力が弱いことを知っていた、だから神様のくださる知恵、神様がいなければ自分は無きに等しいことを理解していたのです。王になった当初は。ポイントはここにあるのです。神様のもとに全てがある。神様が私たちを神様の富をもって、神様の恵み、溢れんばかりのいのちで彼を、私たちを満たして下さり、いのちを広げてくださるのです。神様の恵みが私たちの日を長くしてくださる、と言いますか、本当の生きた自分と神様は長くしてくださるのです。いや永遠にその日を伸ばされるのです。ここに今、神様はイスラエルに立ち返るように、神様に立ち返るように、暴虐で奪われる日々ではなく、神様の恵みで生きるものに帰るように訴えるのです。

 

神様のもとに全てがあります。ソロモンよりも優れた彼の父、ダビデは「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる」と詩いました。

 

神様を喜び歩む人は、水路の側に植わった木のように、やがて実となり、葉は枯れることなく、何をしても「神様が栄えさせてくださる」、といいますか、「神様のくださる恵み」が溢れる、富ませてくださる。そのあなたに「神様が実を結ばせ、枯れることがないように」してくださるのです。イスラエルの王も、ソロモンもそうですが、何とか自分たちが富むために、といろいろします。しかし神様は彼らの道を知っておられる、という事は彼らが辛い時も嬉しい時も知ってくださっている、神様は彼らに応え、彼らを神様の溢れんばかりの富で満たそうと、いのちで満たそうとされているのです。

 

イスラエルの民にしても、私たちにしても、安らかに生きる事を願います。その安らかさは、平安は、神様からくるのです。神様があなたの道を整え、神様があなたと共にいる中で安らか、平安を受けるのです。彼らは「十弦の琴の音に合わせて即興の歌を作り、ダビデのように新しい楽器を考え出」神様を求めているポーズをとってはいました。しかし、神様は十弦どころか、全てのことを働かせて、あなたに喜びの歌で満ち溢れさせてくださる、喜びの歌を奏でる日を迎えさせてくださるのです。暴虐の日ではなく、世に奪われ哀しみ痛む日ではなく、神様が回復させてくださる本当のいのちの日を。

 

神様は私たちの悲しみを笑顔に、憂いを喜びに変えてくださるため、私たちの悲しみも、憂いも、思い煩いも、罪も、一切を御子イエス様に身代わりに背負わせ、私たちの身代わりに十字架で罰せられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。あなたが「捕らわれ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる」ことがないように。あなたを死、陰府から引き上げ、神様の宴会、神様の家族の内に招き入れてくださる、神様の恵みをあなたの内に広げてくださるのです。

 

私たちは今こそこの十字架の御前に遜り立ち返ろう。私たちを造られた、私たちのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった神様に。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださ」る、その神様の広げてくださった永遠のいのち、溢れる喜びに生きようではありませんか。世の状況ではなく、このイエス様のいのちにあってあなたに神様が見せてくださる偉大なる御業を、十弦の琴どころか御子イエス様のいのちにあって奏でられる神様の御業を仰ぎ見、歩ませていただこうではありませんか。