―かなわなかった期待、それでも生きよ!― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。『イスラエルの家よ。あなたがたは、荒野にいた四十年の間に、ほふられた獣とささげ物とをわたしにささげたことがあったか。あなたがたはあなたがたの王サクテと、あなたがたのために造った星の神、キウンの像をかついでいた。わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す』とその名を万軍の神、主という方が仰せられる。」

アモス書5章18-27節

 

人は何かに希望を持ち、期待します。それそのものは悪くはありません。希望はある意味で心の支えになりますからね。ただ、支えは安定していなければいけません。そうでなければ倒れてしまうからです。ではあなたの希望はどこにありますか?神様はあなたの希望となられます。愛することをやめる神様ではありません。最後まであなたを何とか救おうと最善を尽くされます。あなたを愛しておられるからです。御子イエス様の命をかけてでもあなたを愛された、あなたへの愛を貫き通されたのです。私たちはこの神様への希望を失ってはいけません。神様のなされる御心を待ち望もうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。ただ裁いて終わりとするのではなく、彼らが選びの民、大切な、愛する子ゆえに見捨てられない、あなたに生きてほしい、と。それゆえにさ迷い歩く迷子の羊を命がけで捜す羊飼いのようにあなたを探しに来る、その正義を、愛を曲げることなくあなたへの愛を貫き通される、と神様はアモスを通して訴えてこられました。

 

なお神様はアモスを通して「ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない」と語られます。

 

「主の日」を待ち望む者、とありますが、これを聴くと希望がありそうな気がする中、「主の日はあなたがたにとって一体何になる。それは闇であって、光ではない」とはあまりではないか、とこれを聴くと感じる方がいるかもしれません。正義を貫き通される方、「生きよ、主を求めて生きよ!」と神様がここまで語られてきたのに、なぜそのようなことを仰るのか、と。

 

これは本当に悩ましい表現ですが、一つだけ言えることをまず先に話しておきますが、「神様を求める」人にとってこれは希望の日であり、救いです。これまで神様が語られてきたように、それは救いの日、神様の命に溢れた日となります。そう、大事なのは神様を求めること、なんです。これまでもそうだったでしょう?「神様を求めて生きよ、さもないと…」と、滅びることにならないで、神様のいのちを得てほしい、と神様を求めることを何度も何度も神様は訴えてこられました。神様の願いは変わりません、あなたが生きる事です。

 

話を本題に戻しまして、神様は「主の日」と語られますが、そもそもの話、ある意味では主の日はいつでも、です。正確には2つの主の日があります。1つは今申し上げました通り、いつも神様が共におられ私たちに救いの御手を、恵みを注ごうとしている、あなたが帰ってこられるようにその御手を伸ばされているという点では、いつも神様の日です。

 

もう一つは、終わりの時です。これはイザヤ書の分かち合いでも見ました、そしてイエス様の時代にも一貫して終わりの時について語られています。その日イエス様が地上にある不義や悪に対して裁きを行なわれ、神様の支配を確立されます(この辺りの詳細はいつか黙示録を分かち合う際に見たいと思います)。神様を求めない人にとっては裁きの時、しかし、暗闇、絶望の支配下にある中でイエス様は救いに来られる、それでもイエス様を求め続ける人を引き上げ、永遠の神様の御国へと招いてくださるのです。

 

そう考えると、神様を求めない人たちにとって、神様から離れ好き放題に生きる人たちにとっては「それはやみであって、光ではない。人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない」と語られても仕方がないのです。

 

で、終わらせないのが神様なのです。だったら神様はそのまま主の日を迎えさせ、好き放題にはなれる北イスラエル、私たちを見捨てて滅ぼすことだってできるのに、神様は今アモスを通して語られるのです。何を語られているのか?彼らが、私たちが神様の恵みを求め、神様ご自身を求め、生きる事です。「人が獅子(北イスラエルにとってはアッシリヤ帝国ですが、私たちにとっては世の思い煩い、あなたを支配しようとする罪、サタンの手)の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつく…光ではない、暗やみであって、輝きではない」日にあなたが陥ることがないように、今あなたに語られるのです。昨日分かち合いましたように、正義を、愛を貫かれる神様は、その本当の終わりの日が来る前にあなたに救われてほしい、本当の神様の希望、いのちを得てほしい、と今訴えているのです。あなたが真の光、イエス様にあって暗闇から引き上げられ、いのちの光の内に生きるように、と。

 

そのために、神様は日々その御手を伸ばされ続けています。私たちが気付かないだけです。神様は困った人に救いの手を閉ざしてはいけない、わかりやすく言うと助けよう、と語られている、あなたの隣人(あなたの苦手な人、敵さえ)をあなた自身のように愛しなさい、と仰られている、その神様は、まだその御手を閉ざしてはいないのです。

 

主の日は2種類あると先ほど申し上げましたが、終わりの時に神様は私たちが滅びることがないよう、予めその愛を注がれている、今、今日、私たちが獅子に、熊に、様々な問題に襲われ立ち行かなくなっている、と思っている中でその御手を伸ばされている、あなたを救わんとされているという事を忘れてはいけません。やがてこる終わりの日、主の日に備え、神様は日々あなたのために執り成し祈り、その御手を伸ばされ、あなたを恵みの内、いのちの内に招かれているのです。

 

あなたは気づいていますか?神様は今日も生きている、今も生きているんです。一時的なかかわりではない、永遠の交わりへと私たちを招いてくださっているんです。神様は自分の希望通りに応えてくれないじゃないか、とある人は言うかもしれませんが、神様は私たちの希望を超えた大いなる愛をもっていつか消える、失望に向かうものではない、永遠の希望をもってあなたに応えてくださるのです。終わりの時に、死ぬときに信じればいい、という人もいますが、それはあまりに神様を軽く見ていませんか?いつその日が来るかもわからない、というのもありますが、神様は最善の恵み、いのちあるものとあなたをされた、造られたはず、最高傑作としてあなたを造られ、尽きることのない恵みを注ごうとされているのに、それは別に後でいいや、天国にさえ入れればそれでいいや、はあまりにもったいない、というよりも、神様を蔑ろにしているのです。

 

神様はあなたに命を得てほしいのです。↑で「…たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ」とやはり希望はどこにあるのだろう、と思えることが神様は語られていますが、あなたを退けることがないように、まずあなたを神様の祭り、いのちのもとへ、天の御国の前味を今注がれているのです。あなたが神様の喜びに満ち溢れるように今語られているのです。

 

神様はあなたが中途半端に捧げると言いますか、どうでもいい関係として見る事を哀しまれ、それを受け取られない、そこには神様の恵みはない、でも神様はそのあなたを取り戻すために、↑にあるまさに全焼のいけにえ、穀物のいけにえ(全焼のいけにえに添えられるもの)、和解のいけにえとして、私たちを赦し、聖め、神様の恵みに生きられるよう、和解のために、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に架けられ、罰せ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、聖め、神様の子として招かれるのです。和解へ、神様の正義、愛があなたの内を溢れ流れさせてくださるのです。神様は徹底してその愛を貫かれたのです。その愛が、今あなたを生かしてくださっているのです。救って終わりではなくそこからあなたの内に満ち溢れるのです。このイエス様の救いを退けようとするのはある意味では↑の状態にまさにあります。しかしそこから引き上げたいのです、神様は、御子イエス様のいのちをもって。このイエス様のいのちを私たちはないがしろにしてはいけないのです。神様の日、主の日はこのイエス様にあって、終わりの日までずっと続いている、恵みの日は続いている、本物の御国へ私たちを招かれるその日まで。

 

1世紀の伝道者、パウロという人は「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。…この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と語りました。

 

私たちには今や神様との平和に綱が枯れているのです。私たちはこの神様にある希望を、栄光を待ち望んでいますか?このイエス様にあって明らかにされた神様の愛を受け取っていますか?今日、今あなたに注がれている神様の偉大な愛を、喜びを私たちは求めようではありませんか。あなたは御国を受け継ぐ相続人と今やされたのですから。とらえ移されるものではなく、御国へと、御子イエス様のいのちを惜しまなかった神様のもとへと、今日も招かれているのですから、主の日、今こそ私たちは神様に立ち返り、この恵みをいただき、生かされ、歩みたいものです。神様の期待から離れたなあなたを失望のまま見捨てずに、最後までその愛を貫き通された神様に希望を抱き。