―正義を貫かれる方、愛を貫かれる方― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。すばる座やオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方、その名は主。主は強い者を踏みにじり、要塞を破壊する。彼らは門で戒めを与える者を憎み、正しく語る者を忌みきらう。あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている。それゆえあなたがたは、切り石の家々を建てても、その中に住めない。美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲めない。私は、あなたがたのそむきの罪がいかに多く、あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。それは時代が悪いからだ。善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。万軍の神、主は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない。それゆえ、主なる万軍の神、主は、こう仰せられる。『すべての広場に嘆きが起こり、すべての通りで、人々は【ああ、ああ】と言い、農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を知っている者たちを呼んで来て、嘆かせる。すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ』と主は仰せられる。」

アモス書5章6-17節

 

TVドラマなどを見ていると「正義」という言葉がよく歌われていますが、まあ実際の世の中でも自分が正義なんだ、とうたって色々する人がいる。でも、それが本当に正しいなら、どうしてこの世の中混沌とするのだろう。神様のせい?でも彼らは自分こそが正義なんだ、とある意味では自分を基準とするわけですから、そこで神様を持ち出すのはおかしい。神様はむしろまっすぐです。その愛を貫かれます。私たちは己の道がまっすぐなんだ、と考えず、神様があなたのために御子イエス様のいのちを与えてまでもその道を、いのちを整えられたのだから、この神様に最後まで信頼し歩もう、求め続けようではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。ただ裁いて終わりとするのではなく、彼らが選びの民、大切な、愛する子ゆえに見捨てられない、あなたに生きてほしい、と。それゆえにさ迷い歩く迷子の羊を命がけで捜す羊飼いのようにあなたを探しに来る、お会いしに来られたイエス様に会う準備はできているか、と今神様はアモスを通して訴えるのです。

 

神様はなおアモスを通して「主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている」と語られます。これは↑の前の5章前半から続いている、「主を求めて生きよ!さもないと…」という語りかけの続きになります。

 

これを聴くと、神様は言うことを聴かないと罰するぞ、と脅迫している、と勘違いされる方がいるかもしれませんが、そうではありません。神様の願いは、あなたが「生き」ることです。その切実な思いが、この命令形に、「生きよ!」という言葉に込められているのではないでしょうか。「主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる」ことがないように。

 

ここで「ヨセフの家」と出てくるのですが、ここに神様の怒りが激しく降る、それはとても大きな意味を持ちます。と言いますのも、この「ヨセフの家」もまた北イスラエルの側なのですが、このヨセフというのは、かつて世界的飢饉から救うために、あらかじめ神様が彼を奴隷としてエジプトに先に送られ(正確には兄たちの嫉妬から売られたのですが、神様はこれを用いられた)、彼は様々な苦難を通りながら、ファラオの次にエジプトで偉い総理大臣になります。そしてエジプトを、またイスラエルの危機を彼を通して神様は救い出されたのです。彼はどんな時も神様を求めていました。そしてこのヨセフは長子の権利を継ぐ、イスラエルを支える大切な役割を持っていたのです。そして北イスラエルの中心都市として彼から生まれたエフライム族・マナセ族が担っていく事になりました。

 

彼らは神様の偉大な救いを見、また彼自身体験させていただいた、その祝福が、救いが溢れる器として用いられていたのにもかかわらず、彼らは神様を捨ててしまい、イスラエルを神様に立ち返らせるどころか、ヨセフがその蓄えていた食料、神様の恵みを分け、多くの人を救ったように、彼らは神様の恵みを分かち合うどころか、彼らを神様から離れたままにしていた、救いを求めている人たちを、神様を求める人たちを、ヨセフのもとに来ていた兄弟たちを救ったように、その恵みの手を伸ばさず、迷わせてしまっていたのです。もちろん、王に責任があるといえばあります。しかし彼らは自分たちの正義、と言いますか、神様から、神様の道から離れてしまった。あのファラオを恐れず、神様の知恵をただ進言したように、彼らはせず、王を恐れ、神様を恐れなかったのです。その彼らの正義を曲げてしまった結果、彼らはその恵みを失ってしまったのです。神様の怒りが、というよりもそれ以上に神様の恵みを気に食わず、他のものに求めた結果、それらがもたらしたある意味で死を彼らは招いてしまったのです。

 

この後捕囚に向かう北イスラエルと共に。あの、ある意味ではイスラエル史において重要な役割を担っていたヨセフの家の者たちが、こともあろうに、その恵みを失う、なんと悲しい事。その悲しみゆえに、神様は今語られるのでそう。そうなる前に。あのヨセフに神様がいつも語られ、様々なことを示しながら導き救われたように、神様を求めよ、生きよ、と今訴えるのです。

 

ちなみに、↑で「正義」という言葉が語られていますが、これは「真っ直ぐ」という意味なんだそうです。彼らは神様に捨てられて「彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている」ような状態になっているのではないのです。にがよもぎのような状態に神様がしているわけではないのです。むしろ神様は正義を曲げない、まっすぐにその愛を現される神様です。私たちは自分の正義を、正しさをかざしますが、しかし自分の正しさを押し付けるだけで本当に正しい状態になるのでしょうか。むしろ自分の基準に合わせるように誘導すればひずみができてしまいます。しかし神様はどこまでも真っ直ぐなのです。この神様の義、正義、を私たちの都合で曲げず、これを受け入れる時、神様があなたの命を、道をまっすぐにされるのです。神様の義、正義がそこになる、いのちがそこに現されるのです。

 

知者として知られるソロモン王は、箴言に「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける」と書き残し、勧めます。そう、ここにポイントがあるのです。神様があなたの道をまっすぐにしてくださる、神様の正義、義があなたの内に現され、私たちの心身を健やかにし、元気にしてくださるのです。

 

神様に何ができるんだ、というかもしれません。しかし神様はこの天地万物を造られた方です。この天地万物が、あなたが、偶然にできた、と考える人がいますが、それはあり得ません。ちょっとした理科の知識(小学生くらいのレベルで)があればそれは誰しもがわかる話です。この天地万物を造られた神様があなたにその御手のを伸ばされ、ある意味では再創造、あなたを整えてくださる、神様の愛がまっすぐに貫かれたものへと変えてくださるのです。

 

↑では「すばる座やオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方、その名は主。主は強い者を踏みにじり、要塞を破壊する」と表現されていますが、誰があのようなきれいな配置に星々を置くことができるでしょう。輝かせ続けることができるでしょう。様が昼と夕を分けられたように、その神様があなたの暗闇を朝に変えてくださるのです。すべての恵みを、この天地万物を造られた神様の偉大なる技があなたにも注がれるのです。

 

神様はなおアモスを通して「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。万軍の神、主は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない」と語られます。人が思う善を誰かに求めるのではない、神様が善、最善をなして下さる事を求めよう、その時神様の全があなたを生かし、あなたと共にいる神様がその憐れみをもって愛を注ぎ、救われ、導かれるのです。神様の正しいさばきがなされるのです。神様のその裁き、なされる御業を私たちは求めようではありませんか。

 

この神様の霊が、いのちが注がれる時、私たちは変えられ、いのち溢れるものとなるのです。神様はその愛を、真っすぐに貫き通すため、その義を曲げず貫き通すため、私たちを愛するがゆえに裁かない、のではなく、その裁きを御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。しかしイエス様を3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。神様は義ですから、その裁きを曲げて罪人を良いよいいよ、ありのままでいいよ、とされたのではない、それは義ではありません。しかし、神様はその義を貫き通すのと同時にあなたへの愛を貫き通すために、イエス様を十字架に架けられ、あなたへの愛を全うされたのです、全うされるのです。

 

このイエス様のいのちにあって新しくされた今、この神様が貫き通される愛をどうして疑う事ができるでしょう。この正義を地に投げ捨てることができるでしょう。あなたに神様は生きてほしい!と願ってこれだけの愛を全うされ、今も全うされ続けているのです。今長子としての恵みを失われたヨセフの家が回復するかのように、私たちにも神様の恵みが回復されるのです。あなたは神様の家族、子として回復させ、招かれたのです。その時あなたは夜空に輝くスバル座やオリオン座のように輝く。

 

私たちはもう神様の愛を、義を私たちの都合で曲げてはいけない、むしろ私たちはこの神様としっかりつながり、離れることなく、その道を自ら曲げることなく、ただ神様の道を信頼し、歩み続けようではありませんか。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける」との約束をしっかりと握りしめ。神様のくださる恵みによって心身・霊肉共に生かされ歩みたいものです。