―それでも生きよ!生きてくれ!― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「イスラエルの家よ。聞け。私があなたがたについて哀歌を唱えるこのことばを。『おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女はおのれの地に投げ倒されて、これを起こしてくれる者もいない。』まことに、神である主はこう仰せられる。『イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう。』まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。『わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。』主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。」

アモス書5章1-6節

 

親の愛というのは本当にすごいものなんだな、ということを、自分が親になって始めて気づきます。自分の愛がすごい、というわけではなく、こんな大変な時でさえ両親はそれでも見捨てなかった、文句ひとつ言わず、諦めないでいてくれた、そうして今自分が生きているんだ、と考えると余計に。神様はそれ以上に、「それでも」の神様なんです。神様が我が子を愛するように、私たちを造られ、愛し続けて下さった、ソニれも関わらず私たちは離れ、好き放題していたのに、神様はそれでも愛しぬかれたのです。あなたに生きよ!と訴え、ついには御子イエス様のいのちをあなたの身代わりに十字架に架けてでも。私たちはこの究極の愛に生かされていることを覚えよう。この神様があなたを命の道へと導こうと御手を伸ばされていることを覚え、歩みたいものです。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。ただ裁いて終わりとするのではなく、彼らが選びの民、大切な、愛する子ゆえに見捨てられない、それゆえにさ迷い歩く迷子の羊を命がけで捜す羊飼いのようにあなたを探しに来る、お会いしに来られたイエス様に会う準備はできているか、と今神様はアモスを通して訴えるのです。

 

ここでアモスは神様に導かれ、「イスラエルの家よ。聞け。私があなたがたについて哀歌を唱えるこのことばを。『おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女はおのれの地に投げ倒されて、これを起こしてくれる者もいない。』」と語り哀歌を歌います。神様が示されたのは、賛美や感謝を表す歌ではなく、死んだ者を悲しむ時に歌う「哀歌」を歌う事だったのです。

 

このアモスが語られていた時代は、ヤロブアム2世の時代で、これまで何度か触れてきましたが、一応は社会は繁栄していました。一方で、格差、貧困、差別、不正に溢れていて、一見生きているようで死んでいる、まあ現代の日本も似たようなところが見えますが。ただ、栄えていると思っている人たちは、自分たちがいつそのような目に合うかなど、思ってもいませんでした。まあ、自分たちは栄えていると思っている、権力を持っている人は大体そうなのでしょうけど。そしていつかはその権力を失うように、彼ら北イスラエルはこの後堕落が続き、ついには歴史が語るように、アッシリヤ帝国に捕囚されていきます。

 

そもそもの話が、私たちは神様によって生かされています。いや、神様が日々私たちを、親が我が子を養うように、養い、守り、導いて下さるのです。彼らは自分の力で富を得ている、成功しているように考えていましたが、そうではありません。この天地万物を神様が造られ、神様が私たちに与えてくださったのです。だってそうでしょう?私たちは何も持たずに、裸で生まれてきたのです。誰が自分のものをもって生まれてきたでしょう。このからだだってそうです。自分で組み立てたわけでも、偶然こうなったのでもありません。神様が母の胎内にいる時から組み立ててくださっていたのです。

 

しかし今北イスラエルはこれを自分たちの力による、と考え神様から離れている。その彼らに、神様は「怒り」の歌、ではなく「哀しみ」の歌、哀歌を歌うのです。もう見捨てる、のではなく、神様はそんな彼らを悲しまれたのです。もう好き勝手に生きる彼らなど知らない、と見捨てるのではなく、悲しまれ、最後の最後まで訴えるのです。このままでは、あなたがたはアッシリヤ捕囚によってもう立ち上がれなくなる、と。それは神様の「哀しみ」なんだ、と。

 

神様にとっては私たちが死にゆく、何かに捕らえられ、立ち上がれなくなることは悲しい事なのです。勝手に離れていったんだから自業自得、とは言わないのです。神様はその私たちを哀しまれ、その御手を伸ばされるのです。何とか生きてほしい、と。

 

前回の箇所で「わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき、あなたがたのすべての場所で、パンに欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。―主の御告げ―わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、雨の降らなかった他の畑はかわききった。二、三の町は水を飲むために一つの町によろめいて行ったが、満ち足りることはなかった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった…」と語られていたのを覚えているでしょうか。

 

神様は様々な形をもって御手を伸ばされ、彼らが枯れ果てていく中で神様がその御手を伸ばされてきたことを語り、それでも、「あなたがたは帰らなかった」と何度も繰り返し嘆かれていました。それは昔も今も変わらないなら、もうあきらめよう、とは神様はならなかったのです。前回見た通り神様は、それでもお会いしようとされていたのです。神様の恵みと出会わせようとしてくださったのです。むしろ、そこで神様は「哀歌」をアモスを通して示された。神様はこのまま立ち上がれないでいる、失われる事、帰ってこないで倒れていく事を、世の思い煩いや様々なもの、罪の呪い、サタンの手によって好き放題され奪われていく、失われていく、神様の恵みを本来受けるはずの彼らが命を失っていく事を我慢できず、それを哀しまれたのです。

 

神様は、喜怒哀楽のある神様です。喜ぶものとともに喜び、悲しむものと共に悲しまれる神様です。罪人のあなたに憎しみを持つことよりも、その罪をもたらす様々な問題、あなたを滅びに導こうとする世の勢力、サタンに対して怒りをもち、取り戻そうと神様は戦われるのです。あなたを取り戻すために。なぜ?あなたは神様の愛する子だからです。あなたは神様にどれだけ愛されているか、それを適当に見ていませんか?神様はあなたに真剣に、真剣な思いで見て、触れられ、あなたを導こうとその御手を伸ばされているのです。↑で神様は彼らを愛したことを、後悔されたのではない、むしろ必死になって今語るのです、あなたに生きてほしい、と。見捨てるなら哀しまない。しかし、哀しみのゆえに語るのです。よく、人は言われているうちがまし、言われなくなったら終わりだ、と言いますが、神様はそれでも語り続ける。終わりにならないように。

 

神様はここで続けて、「『イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう。』まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。『わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。』主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる」と、何度も何度も「生きよ」、「主を求めて生きよ」と語られるのです。

 

「千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう」ということはもう、あらゆる人たちが奪われ、力が失われていった、いくという宣言に他ならないでしょう。神様はあなたを無に帰したくない、生きてほしい、これまでの章で触れてきました偶像に満ち溢れたベテルによって自分が失われていくのではなく、神様にとどまり、神様に生きるように、訴えるのです。

 

神様は「主を求めて生きよ」と語られていますが、「求めよ」、ということは「答えてくださる」ということです。あなたは誰を求めますか?神様はそれでも答えてくださる神様なのです。神様を求める中で、神様が私たちを生かしてくださるのです。どんなにこの世的な目で、色んなものが失われていくように見えても、私たちはパンだけで生きるのではなく、神様の口から出る一つ一つのことば、その恵みによって、祝福にあって生かされるのです。神様が愛を注がれる中で、私たちは本当の意味で生きたものとなるのです。

 

北イスラエルの現状は、ヤロブアム2世の時代は貧困などがひどかった、と先ほど触れましたが、神様は国ばかりを見ていて彼らを見ていないのか、と言われたらそうではありません。その彼らにさえ、神様は御手を伸ばされ、救おうとされている、だから今北イスラエルが変えられるように神様は彼らに語りかけ、悔い改めを語られるのです。どん底にある人を神様は見ていないのではない、見捨てられてもおかしくない人たちを見て見ぬふりをされるのではない、神様は全力で、あなたに生きてほしい!とありとあらゆることをされるのです。南ユダのアモスをわざわざ危険な北イスラエルに派遣してまで、神様は彼らが滅びるのではなく生きてほしい、と、生きよ!とその手を尽くされるのです。それは私たちが気付かないだけで、神様はありとあらゆることをもって、哀しみを喜びに変えるため、あなたの死を命に変えるため、霊的な飢え渇きを満たして、本当の意味で生きるため。

 

そこで神様は御子イエス様に私たちのこの罪を身代わりに背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。このまま私たちが世の思い煩いや痛み、何より罪、サタンの手によって完全に神様の恵み、命を失うことがないように、気づかないまま死の床に、陰府に引きずり込まれてしまうことがないように、まず愛を示された。罪からくる報酬、死ではなく、永遠のいのちを持つために。あなたの罪の身代わりにイエス様がその罰を、怒りをその頭上で受けられたのです。そして「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」と赦しを懇願し、その霊を委ねられました。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦され、神様の子とされたのです。

 

そこまでしてまで神様はあなたが生きる事を願われています。あなたが何を、誰を求めて良いかわからずさ迷う私たちにまず神様ご自身が愛を示されたのです。神様は今日、あなたにここまでされた、その神様が全力をもってあなたに恵みを注がれ生かしてくださっています。あなたが失われることがないように注がれたその愛、イエス様のいのちにあって今あなたに注がれています。あなたは今日、誰を、何を求め生きるでしょうか。神様は求めるものには与えられる、応えてくださる神様です。神様のくださる永遠のいのち、真の命を、恵みを求めようではありませんか。あなたの哀歌、哀しみの命を新しいものに、イエス様のいのちをもって変えてくださった神様に今日信頼しよう。どうか、死なず、生きてください。神様もあなたと共にいます。