―顔を背けられる前に― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はこう仰せられる。『モアブの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼がエドムの王の骨を焼いて灰にしたからだ。わたしはモアブに火を送ろう。火はケリヨテの宮殿を焼き尽くす。モアブは、どよめきのうちに、角笛の音と、ときの声のうちに死ぬ。わたしはさばきつかさをそのうちから断ち滅ぼし、そのすべての首長たちを、彼とともに切り殺す』と主は仰せられる。」

アモス書2章1-3節

 

愛の反対は無関心、とよく言われますが、それはやがて無視につながります。私が以前働いていた会社で、同僚が先輩に挨拶をしても、返してもらえない、と嘆いていたのを覚えています。忙しいわけではなく、普通に朝の最初の挨拶であっても。他のスタッフはどんなに返してくれるのに、その人だけは返してくれない、と。これ、実はハラスメントなんです。挨拶を返さない、という事はその人の存在を認めないことになるそうです。こうなるとある意味では修復不可能。でも、神様は本来私たちが神様から離れ、顔を背けられ、無関心に見捨てることができたにもかかわらず、私たちを見捨てず今日もあなたが顔を向け、立ち返ることを願っています。あなたに命を得てほしい、と御子イエス様の命をかけてまで、さ迷い歩く私たちを迎えに来られた神様に今日、何を期待するでしょうか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。何とか彼らが神様の恵みに気づき立ち返ってほしい、と願い。

 

神様はなお↑で、宣告を続けられ、↑ではモアブに対して宣告が成されていきます。まずモアブに対して神様は「モアブの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼がエドムの王の骨を焼いて灰にしたからだ。わたしはモアブに火を送ろう。火はケリヨテの宮殿を焼き尽くす。モアブは、どよめきのうちに、角笛の音と、ときの声のうちに死ぬ。わたしはさばきつかさをそのうちから断ち滅ぼし、そのすべての首長たちを、彼とともに切り殺す」と宣告されます。

 

まずこのモアブというのはこれも実はイスラエルの兄弟国、1章で触れられていたアモンとも兄弟国になります。イスラエルの父祖と呼ばれるアブラハムは甥のロトも連れて旅をしていたのですが、ある時財産が増えすぎて、両者にいざこざが絶えなくなった時、お互い別の道を進もう、と別れました。その後甥のロトは、ソドムとゴモラの町に住むのですが、ロトと娘たちは神様を信じ町を脱出して裁きから逃れたのですが、その逃れた先に、自分たちをもらってくれる旦那さんなどいないのではないか、と神様に不信感を抱いた娘さんたちが父を避けで眠らせて子を身ごもって生まれてきたのが、このモアブ(長女の子がモアブ、次女の子がアモン)になります。

 

ロトは意識がなかったとはいえ、近親者の間で生まれた子について、といいますか、そのような関係を神様は良しとはされません。じゃあ神様は彼らを邪険に扱った、だから神様は彼らにこんな宣告をされたのか?と言われたらそういうわけでもなく、イスラエルの民が出エジプトを果たし、モアブを通る際、神様は「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである」と語られています。

 

ただ、問題はその後なお約束の地を目指して旅をするイスラエルの民を、ミデヤンと手を組んで誘惑し、堕落させた、それ故に神様はこの時、「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、入ることはできない。これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない」と厳しい宣告をされました。

 

10代経っても、とは厳しい宣告です。神様、厳しいよ、と思われますか?しかし、神様はご自分の民を、愛する者を傷つけることを悲しまれる、それ故に、彼らに立ち返ってほしかった、その構図は↑のアモスを通して神様がモアブに宣告されている様子と同じなのです。同じ神様が造られた存在であり、イスラエルの兄弟国。彼らを攻め取らないでほしい、というこの思いから、神様は何とか彼らに立ち返ってほしい、と願われていたのです。幸せになるために立ち返ってほしい、と。

 

実は、このモアブの民に対して神様は見捨てていなかった様子が王国時代直前に見られました。ある時、ある家族が飢饉から逃れるために、モアブに行った、というよりも神様がそこに導かれた、と言ってもいいかもしれませんが、10代経っても加わることが赦されないと言われているモアブの地に飢饉から逃れるための場所として導きます。そこでモアブ人と夫婦の息子たちは結婚するのですが、奥さん(ナオミ)以外の旦那さん、息子たちは亡くなってしまうのです。しかしナオミは謙遜に家族に仕え、その姿を見ていたお嫁さんたち(オルパとルツ)はナオミと一緒にイスラエルに行かせてほしい、と願います。あなたの神様はわたしの神様なんだ、と。それでオルパは結局ナオミの説得によって残ることになったのですが、ナオミは彼女の幸せを祈り、ルツは一緒についていきイスラエルの民と最終的に結婚、なんとそこからやがてイスラエル王国2代目の王、ダビデが誕生する、そしてその先にはイエス様を胎内に宿す、イエス様の最も身近な場所にいられる最高の特権を得たマリアが生まれます。

 

神様の民に加えられないどころか、神様は驚くべきことを彼らの内に成したのです。もちろんそれは一部の人かもしれません。しかし神様は確かに彼らに、滅びの道の中に御手を伸ばされ、苦しみに会わなければいけない夫妻を通して彼らをご自身のもとに引き上げようとされたのです。

 

ある意味では前の章でアモンに対する宣告がありましたが、彼らについても先ほどの出エジプトを果たしたイスラエルの民にモアブと並列で、彼らのところを通ってはならない、と語られていたように、彼らにも同じように神様は御手を伸ばされていたのです。

 

また、出エジプトを果たし、約束の地への旅をつづけるイスラエルの民に、前回の裁きの宣告を受けたエドムについて神様は、「あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった」と語られていたのです。

 

争いを仕掛けてはいけない、十分に注意しなければいけない、彼らの地はイスラエルの民が足の裏で踏む小さなところでさえ、エドムに神様が与えている所有地なんだ、と。その財はここで触れられているほど大きく神様は祝福されていたのです。神様が守ってくださっていた、神様がエドムにもかけたものが無いほどに全てを備えてくださっていたのです。彼らはイスラエルの民をねたみ、彼らにいつも攻撃を仕掛けていましたが、実は神様は彼らをこのように背後から守られ、祝福されていた、それに彼らは気づかなかったのです。神様はその御顔を彼らに向けていたのにもかかわらず、彼らは神様から顔をそむけてしまっていたのです。神様は見捨てていなかったにもかかわらず。

 

話を↑に進めて、そのモアブに、神様は「モアブの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」と宣告されます。三つ、四つというのは到底赦し難いものをあらわすものだそうで、それは「取り消さない」という神様の厳しい宣告につながっているのではないでしょうか。積み重ねに積み重ねてきた重い罪に神様宣告されているのです。

 

では彼らは何をしたのか。それはイスラエル王国が分裂して後、北イスラエルをヨラムが、南ユダをヨシャパテが統治していた頃(アモスの宣告の時代よりずいぶん前になります)に、南北イスラエルとエドムが手を組み、モアブを攻撃します。その際、モアブ人が戦況が不利になったとみると、エドム人の墓を掘り起こし、その骨を焼き払ったのでした。神様はこのことについて、激しく怒られていますが、当時の社会において人は生きている時だけでなく、死んだ後も丁重に葬られました。それを掘り起こして骨を焼き尽くすという行為は、冒涜だったのです。

 

火葬の問題なのか?と思ったのですが、すでに骨となったものをわざわざ掘り起こしてそれをさらに焼くというのはさすがに問題があります。文化的背景や死者崇拝の問題でもありません。何が冒涜なのか。それは、私たちが死後どうなるのか、に焦点を当ててみるとわかるのですが、神様を信じて救われた人はみな天国に行き、そうでなければ地獄、裁きへと進みます。しかしそれはただイエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれた、そして3日目によみがえられた事、この十字架に御前に悔い改め立ち返るか、その1点にあったのです。神様はすべての人をそこに招かれている。モアブであっても、アモンにあっても、神様はその御手を伸ばされているのです。それは最初彼らの一族について振り返りましたが、まさに神様の御手が伸ばされていた、それでも愛されていたことは一目瞭然です。

 

つまり、これを焼き払うという事はその十字架を、神様の愛そのものを焼き払うことに等しいのです。この十字架を除いてどのように人は救われることができるでしょう。永遠のいのちを得ることができるでしょう。いえ、他にはありません。イエス様は私たちをその命をもって買い戻してくださったのです。神様は、私たちが顔を背け離れていく中で、それでも私たちをじっと見つめ、その愛を御子イエス様の十字架にあって実行に移された、それほどに愛されたのです。絶対に許されるはずがない、撤回不能の私たちの罪を、塗りつぶし、赦しの宣言をいただけるのです。焼き払われ、滅ぼされる身が、新しい永遠のいのちが与えられ、神様の子とされるのです。裁き司、どころか、命をかけて愛し救ってくださった救い主イエス様があなたを今日招かれているのです。

 

もう私たちはモアブのように神様に断ち帰ったり離れたり、というそむきの罪を重ねるのではなく、神様から離れず、神様が向けられた御顔を仰ぎ見、歩ませていただこうではありませんか。このイエス様のいのちにあって、神様の恵み・祝福があなたの内に積み重ねられ、私たちは歩ませていただけるのだから。神様が御顔を向けられる中で、私たちは守られ、恵みと平安に満たされるのだから。