―イエス様の十字架:そこにきみもいたのか― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。『エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が、【不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ】と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山に向かって、【われわれの上に倒れかかってくれ】と言い、丘に向かって、【われわれをおおってくれ】と言い始めます。彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。』ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え』と言った。『これはユダヤ人の王』と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え』と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった』と言った。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。」

ルカによる福音書23章26-49節

 

私たちは様々な場面で様々な人と出会います。いや、神様に出会わせていただける、と言った方がいいのでしょうか。私もこれまで多くの素晴らしい友と出会わせていただいたこと、彼らによってどれだけ助けられたか。神様に感謝が絶えません。視点を変えてみると、神様は私たちと出会ってくださる。神様は様々な形を通して出会ってくださる。神様は自分を見捨てている、と時に人は考えますが、むしろあなたを救うためなら、と天に留まるのではなく、御子イエス様を人として生まれさせてまであなたに出会いに来られ、救いに来られたのです。ついには十字架上で死刑囚とまで。あなたと出会い、あなたの内に現される神様の恵みはいかほどか。私たちは神様が出会ってくださった、この命を喜び、歩みたいものです。

 

さて、↑はいよいよ神の御子イエス様が十字架にかかられるところになります。↑を読んで様々な人たちが登場しますよね。その前にはバラバという死刑囚が、イエス様の身代わりに釈放された、という出来事がありましたね。いや、この公生涯の中で様々な人と出会ってこられたことが、今までルカによる福音書の分かち合いの中で見られたと思います。イエス様はただ機械的に十字架にかかってはい、おしまい、とされたわけではなく、一人一人に愛を注がれ、ただ癒されるだけではなく救いへと招かれていったのです。

 

それは、もう苦痛以外の何物でもない、この十字架への道においても変わりませんでした。まず、田舎から出てきていたクレネ人シモンという人(はっきりとはわかりませんが商売か何か出てて来ていたようです)偶然の出会いではなく必然の出会いのように、出会うのでした。彼はイエス様の十字架を身代わりに背負ってゴルゴダの丘、十字架まで背負っていきます。なんで自分がそんなことをしなければならないのか、とは一言もルカはもとより他の弟子たちもそのことを記録していません。よく聖書の漫画とかではイエス様が辛そうだったから、ローマ兵が背負わせた、という感じで描いているのですが、そのような記録はどこにも実はないのです。そもそも死刑囚ですから、そんな温情をローマ兵が持つとは考えられません。

 

実はこの一瞬の邂逅がシモンの人生を変えることになります。イエス様はいや自分で背負う、という事も出来たのですが、それをされた記録もやはりありません。しかし、イエス様はこの十字架への道の中でシモンの十字架と交換されたのです。彼が背負うべき十字架をイエス様が背負われた。イエス様が彼の本来罪故に負うべき十字架を背負われ罰せられ死ぬ、そしてシモンはその十字架によって交換された新しい命の内を歩むことになるのです。そして彼は後にクリスチャンとなり、彼の息子もやがてキリスト教界の中で活躍することとなるのでした。

 

イエス様はただ機械的に十字架にかかられたのではない、私たち一人一人と出会われ、その十字架を身代わりに背負い、交換され、進まれたのです。それは私たちを癒すため。そのためならイエス様は本来罪人の十字架など何で背負わなければいけないんだ、とは考えず、その道を引き返すことなく、出会われた人たちを見捨てることなく進まれたのです。

 

それはイエス様の後を今負う、大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れに対しても同じでした。今まで分かち合ってきましたイザヤ書で見ました預言の通り、今実現しようとしている、新しいことが、ここから始まる。古い私たちの痛み、汚れ、罪、一切をイエス様は背負われ、交換され、聖く、新しくしてくださる、今まで見たこともないような驚くべきことをなすよ、と訴えたのです。それはその他大勢でも誰でもない、あなたのためです、と。

 

イエス様は、私たちの罪を背負うことを何の恥とも思いませんでした。2人の死刑囚と一緒に十字架にかかられますが、何で死刑囚なんかと一緒にかからなければいけないんだ、と拒否しようと思えばして降りることもしようと思えばできた、死刑囚がそのように罵ったように。しかしイエス様はそれをされなかったのです。そればかりか、今十字架に架けた者たち、これまでイエス様が出会ってこられた人たち、十字架にかかる直前に出会ったシモン、今横にいる死刑囚2人も含めて、彼らを見捨てるどころか、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と、彼らの罪の赦しを懇願された、今この命をもって霊を委ね、懇願されたのです。

 

これを見ていた死刑囚、最初は2人でイエス様を罵っていたのですが、一人は自分を恥じ、悔い改め、自分は天国に行く資格はないけど、攻めてイエス様が御国につく時には自分を思い出してください、と願い出たのです。しかし、その彼は古い命は確かにこの十字架で取り去られても、新しい永遠のいのちを与えるため、わたしはここから降りず、あなたにこの十字架で罰せられよう、とイエス様は彼を受け入れたのです。そして彼の地上での生涯はここで終わるも、天の御国で永遠に主と共に住まうことが赦されたのです。彼の受けるべき報いはイエス様が引き受けられ、その報いは恵みへと変えられたのです。そして一部始終を見ていた百人隊長は「ほんとうに、この人は正しい方であった」とイエス様を救い主として認めるのでした。

 

イエス様はただ罰を受けられ、死んで終わりではなく、私たちの背負うべき報い、十字架、死を身代わりに背負われ、交換されたのです。そして復活と共に、悔い改めた死刑囚のように、この十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の新しい命へと代えてくださるのです。

 

あなたは確かに、↑に登場するイエス様を追っかけてきた人たちや目の間にいたローマ兵、シモン、死刑囚ではないかもしれない。しかし、私たちは↑でこの十字架を目撃した人たちの一人でもあるのです。私たちはこのイエス様の愛の前に傍観者であってはいけない。傍観者となってそのまま神様から離れていくのではなく、まずイエス様はあなたの命を交換しようと初めに愛され、まず罰を身代わりに引き受けられたのです。そこまでしてでも、今あなたに命を得てほしい、罪の赦し、救いを受け、永遠のいのち、イエス様の十字架による神様との和解を得てほしい、そう願い、あなたの罪の赦しを懇願されたのです。私たちはこの交換された命、ただ眺めているだけではなく、イエス様と共にこの道を進ませていただこう。眺めているのではなく命をかけられたイエス様が今日あなたの道を開き、共に歩んでくださるから。