―それでも最後まであきらめなかったのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、こう言った。『あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。』さて、ピラトは祭りのときにひとりを彼らのために釈放してやらなければならなかった。しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。『この人を除け。バラバを釈放しろ。』バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者である。ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。しかし、彼らは叫び続けて、『十字架だ。十字架につけろ』と言った。しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。『あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。』ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。」

ルカによる福音書23章13-25節

 

諦めない、ってすごいことだな、と思います。希望を抱いているからこそあきらめずにいられるのかな、と思うところ。そしてそれは愛ゆえ。神様は神様から離れたり、戻ったりを繰り返す私たちをどう見ているのでしょう。それでもあなたに救い、永遠のいのちを得てほしい、と御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えた神様です。私たちはその神様の愛にどう応えるでしょうか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられた、私たちを救うために来られ、今十字架にかかる直前、その時の裁判の様子です。イエス様はユダヤの統治を任されていたピラトのもとで今裁判を受けています。イエス様をねたむ宗教家たちによって、何とかイエス様を処刑にしたい、とピラトのもとにイエス様を引き渡したのですが、ピラトは色々問うても、イエス様に罪を見出すことはできません。昨日も分かち合いましたが、ピラトは残虐性もあり、おそらく彼に引き渡せば処刑してくれるだろう、と宗教家たちも思っていたのかもしれません。しかし、そのようなピラトでさえ、イエス様に罪を見出すことはできませんでした。面倒だから、と適当にあしらいうわけでもなく、イエス様の前にそのようなことさえできなかったのです。

 

そこでピラトはイエス様を連れてきた宗教家たちに、「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します」と告げました。

 

当時これを見ていた弟子たちの記録では、ピラトは彼らがイエス様に対して妬んでいたことから今イエス様を自身のところに引き渡したことは見抜いていました。それほどの眼力があるピラトですから、イエス様についても問題があれば見抜くでしょう。しかし、どうやっても見いだせないで、ユダヤのガリラヤの支配者ヘロデ(彼も残虐)のもとにも送りますが、彼もやはりイエス様に罪を見出すことはできなかったのです。

 

これは、イエス様の裁判だから自分には関係ない、と私たちは思ってはいけません。私たちはイエス様をこの当時の宗教家たちのように裁判にかけていませんか?裁こうとしていませんか?残虐と言われたピラトもヘロデもしっかりとイエス様を見ました。しかし自分が気にくわないから、自分の思う通りにしない、自分のルールに従わない神など神ではない、と当時の宗教家たちのように私たちはなっていないでしょうか。イエス様はあなたを見ている。私たちはイエス様に、あなたはわたしをどう見ているのか、と問われるのです。

 

ただ、ピラトは残念なことに中途半端な態度をとり、「だから私は、懲らしめたうえで、釈放します」と民衆を満足させる妥協案を取り、この後さらに自分を苦しめることになるのです。もう引き返せないところまで来てイエス様を最終的に引き渡すことになるのです。彼はある意味で世の勢力に、権限を持ちながら屈する形となっていったのです。神様らか受ける恵みをとるか、それとも世に妥協して、世の名誉をとるか。

 

イエス様を懲らしめても納得をしない群衆。そこでピラトは、次に恩赦を利用しようと考えました。祭りの時に恩赦で、一人を釈放することになっていたことを思い出し。そして彼らにイエス様を釈放するか、それともバラバという都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた死刑囚を釈放するか問うたのです。群衆に選ばせるという責任転嫁にも感じますが、何とかイエス様を釈放したかったことが↑から見られます。もしかしたら、彼らが言うイエス様が神の御子なら、その神様が釈放させるかもしれない、と一縷の望みを抱いていたのかもしれません。さらには、実は彼の妻クラウディアから、「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから」と告げられていた。これはもう何かあるかもしれない、と。

 

しかし、群衆たちは「この人を除け。バラバを釈放しろ」と叫ぶのです。彼らは救い主イエス様より、明らかな死刑囚バラバを選んだのです。自分たちに必要なのは神ではない、と。もうめちゃくちゃですよね。ただ、同時に神様はイエス様を釈放させなかったのです。こんな民などもう知らない、と見捨てるのではなく、イエス様を釈放させずにそのまま沈黙されていたのです。なぜ?バラバという名の彼ら、ピラト、私たちを、罪の奴隷、死刑囚から釈放するため、身代わりにイエス様を十字架に架けることを選ばれたのです。このひとではない、あなたを、と。

 

ピラトは結局イエス様を民に引き渡します。そしていわゆる使徒信条というものでは「ポンテおピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と、その名を残すこととなります(一説には十字架の後、悔い改めてクリスチャンになったようなことが当時の教会の中に記録されているそうです)。しかし、十字架に架けたのは、ピラトももちろん最終決定をしたのですからそうですが、私たちであり、私であり、あなたなのです。神などいらないと好き勝手に歩む、神様から離れ死にゆく私たちを何とか救うために、私たちの罪ゆえにイエス様が身代わりに十字架に架けられたのですから。あなたを、↑の一番最後、世、思い煩い、死、サタンに「引き渡して好きなようにさせ」ないために。むしろ神様はあなたをそこから引き上げ、神様の子として受け入れるために、御子イエス様のいのちを惜しまず与えてくださったのです。

 

もう私たちはこのイエス様のいのちが与えられた今、私たちの心を世、罪、死、サタンの手に渡してはいけない。イエス様のいのちにあって釈放された私たちはこのイエス様の恵みに生かされ歩もうではありませんか。バラバが釈放された後どうしたかは聖書には書かれていませんが、そのあとどう生きるかは私たち次第です。イエス様はあなたの罪を赦し、新しい命、永遠のいのち、神様へとつながっている新しい命の内を導かれるのです。あなたはこの与えられたいのち、愛の中、どう生きるでしょう。再びイエス様を罪人として十字架に架けるようなものではなく、このイエス様を主として、生かされ、歩みたいものです。