愛していたと思っていたら、実は愛されていた… | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

持っていたものではなく、与えられたものでした。

 

知っていたことではなく、教えられたことでした。

 

生きているのではなく、生かされていることに気づきました。

 

元気なのではなく、日々健康が与えられていたからでした。

 

裕福なのではなく、満たしてくださるお方がいたからでした。

 

助けてあげるのではなく、先に助けられていました。

 

私が高い所から祈ってあげる前に、私が低い時、誰かに祈られていました。

 

努力して手にした幸せではなく、備えられた恵みでした。

 

謙遜なのではなく、へりくだることを学んだにすぎませんでした。

 

偶然ではなく、すべては愛してくださる主の導きでした。

 

私が何かを得ようとするたびに、神様は何かを犠牲にされてきました。

 

私から歩み寄ったのではなく、主のほうから走り寄って来られたからでした。

 

私が感謝をささげる前に、神様のほうから「会いたかった」と言ってくださりました。

 

私が「ごめんなさい」と謝る前に、神様は「待っていたよ」と言ってくださりました。

 

「私はこんなに泥だらけなのに…」と声を振るわせた時、神様はその言葉を聞かず、とびっきりの笑顔と、まるで子供のようにはしゃぎながら御使いたちにこう命じられました。

 

「急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」(ルカの福音書15章22節~24節)

 

私は、愛したのではなく、愛されていました。

 

ーある牧師の記録よりー