↓の記事はミス青森に選ばれたある女性Iさんの、ある本でみつけた体験談です。
これは20年以上前の話ですが、ミス青森に選ばれたある女性Iさんの話です。この女性はミス青森に選ばれたことによって、自分の勤める会社や周りの人たちから脚光を浴びていました。
ところがそんなある日、同じ会社の女性が彼女ばかりが注目の的になるのに嫉妬して、硫酸を手に入れ、彼女の顔にかけてしまったのです。トイレに呼び出し…
いうまでもなく、美しい「ミス青森」の顔が、やけどのために、とても見にくい顔に変わりました。
彼女はすっかり生きる気力をなくし、自殺を考え、電車に飛び込むため、線路に行きました。ところが、自殺をしようとしたその時、彼女はふと、幼いころ、教会の日曜学校に行った時のことを思い出しました。自殺はいつでもできると気を取り直して、教会を訪ね、牧師から福音(わかりやすく言うと神様の愛、もっと言うと救いはどこにあるか)を聴きました。
先生の話を聞いているうちに、彼女は人生に対する価値観が変わり、神様を求め始めたのです。彼女は、外面を美しく装うことで、自分の存在価値を人に認めさせようとして、努力してきましたが、心の中は汚れていることに気づきました。
彼女は、イエス・キリストが十字架に架けられているときの姿と、自分の姿とを比較してみました。キリストは十字架の上で血を流されました。あまりにも醜い姿でした。しかし、あの十字架の醜さは、私たちの心の罪の醜さを美しくするための身代わりだったのです。彼女は、外側の醜さよりも、心の醜さの方が問題だということがわかって、神様の前に自分の醜い罪を告白し、イエス・キリストを自分の個人的な救い主として受け入れたのです。
話はここで終わらない…
そんなある日、彼女は偶然、町で硫酸を彼女に架けた女性に出会ったのです。その女性は逃げるわけにもいきません。罵声を浴びせられても仕方がない、と覚悟したのでしょう。黙って下を向いてしまいました。
ところがなんと、その女性の思いとは違って、ミス青森Iさんは、女性の両手を取り、笑顔で「ありがとう」といったのです。
「え?なんですって?」
女性は驚いて一瞬、自分の耳を疑ってしまいました。
ミス青森Iさんは説明しました。
「あなたが、私の顔をめちゃくちゃにしなかったら、私は一生、いつまでも外側の美しさだけを誇りながら、生きようとしていたことでしょう。顔は醜くなりました。でも、心の中は、雪よりも白くされたのです。だから『ありがとう』といったのです。」
犯人の女性は思ってもいなかった彼女の言葉にびっくりして、Iさんに心から謝罪しました。そして、彼女の優しい言葉によって、罪責感から解放され、平安を得ることができたそうです。
キリストの愛がそこにあふれる時、赦しの心が溢れる時、こんな驚くべきことが起こるのです。もちろん犯人はどうもIさんと再会する前に罪は罰せられ、住んでいた場所にも住めなくなっていた、と多くの苦しみ、罰を受けてはいます。でも、その犯人にもやり直しの機会が訪れ、変えられる機会となっていった。
実はこの話には裏話があって、刑務所にいる犯人と手紙のやり取りを何度もして、赦すこと、それも伝えていたそうです。その後、出所した彼女とIさんは一緒に住み、看護師になると決めた犯人のために、行けるようにサポートしたとか。
イエス様の十字架は私たちを丸ごと変えます。心の痛みも癒され、でも癒されて終わりではなく、さらに社会復帰というか、本当のいのちの内を歩めるように変えてくださるのです。私たちは外面を一生懸命プライドや努力によってエステする必要はありません。この神様が飾らせるそのいのちがけの愛によって、御心によって着飾らせていただけるのです。醜いものは過ぎ去り、イエス様のいのちが溢れるのです。これこそ究極のエステ。さらにそこから思わぬ変化が周りにも起こってきます。神様の御心が広がるところに、神様の愛が溢れるところに、神様の愛をもって仕えるところに。
今日、様々な苦難困難があるかもしれない。でも、
神様がすべてを造り変え、導いてくださる。私たちの心を罪で汚し、醜くしてはいけません。
御子イエス様の十字架の血潮によって洗い聖められ、主の栄光を放つものであろうではありませんか。神様の御心が現れることを切に願おう。
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイによる福音書5章43-45節)