―新天新地:いつまでも喜び楽しもう!― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない』と主は仰せられる。」

イザヤ書65章17-25節

 

いつかいい日がきっとくる、それは誰しもが持つ希望でしょう。世の中を見渡しても、また身近なところでも、もっと良くならないかな?と大なり小なり、人は希望を抱きます。じゃあどうしたらよくなるの?人の努力?相手が変わってくれるのを待つ?いえ、神様がそこに介入される時に驚くべきことが起こるのです。聖霊様の促しを受け入れる時、そこに神様の大いなる御業がなる、神様が変えてくださる。私たちは神様に希望を抱くことを忘れてはいけません。神様に祈ろう。神様の御心がなること、御国が来ることを切に祈ろうではありませんか。

 

さて、いよいよイザヤ書も佳境に入ってきました。ここまでイザヤを通して神様は多くの預言をされてきました。↑の前までは、神様は神様の驚くべき救い、光が私たちの上に覆い、そこからさらに神様の恵みが溢れ流れさせてくださる事を神様が語られてきた一方、終わりの時に起こる裁きの時についてもはっきり語られてきました。ただ、その裁きから赦しを受けるために今、あなたを救おうと語られている事、身代わりにその血を、裁きをイエス様が負われること、本来そんな愛を受ける資格など私たちはないはずなのですが、神様はそれでもあなたに生きてほしい、と願われ語られてきました。いよいよ終わりの時に完成する御国の姿について、ここから語られていきます。

 

神様はここでイザヤを通して「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない」と語られます。神様は何か今のものを進化させて良いものにする、とかそういうことをここで言っているわけではありません。まあ、そもそも進化なんてものはないのですが。かつて神様が天地創造をされた時(今から6000年以上前)、神様は無から有を造られました。6日間で創造を終えられました(7日目は休まれます)。この天地万物にあるすべてを。人間の思う枠で考えますと、そんなの無理でしょう、と思う人もいますが、神様は言葉をもって創造されました。一瞬でそれらを引き出されたのです。

 

私たちがそんなの、無理でしょう、と人間の枠にはめようとしますと、神様をもその程度の存在、と自ら押し込めてしまう。そして諦める。でもそれでいいのでしょうか。神様のなさることは完全です。確かにまだ最後の時が来ているわけではないので、この預言が関係ないと考える人もいるでしょう。しかし私たちは日々の歩みの中で、神様があなたの内に成そうとしている計画を軽んじはいけません。それではどうして希望を持てるでしょう。

 

話を戻して、ここで神様が仰られている「創造」ですが、これはこの天地万物を造られた時、「初めに、神が天と地を創造した」の中で使われている言葉と同じことばが使われているのです。そう、無から有の創造を意味する言葉です。どうせ今と大して変わらない、とかそんな残念なことを神様はなさりません。すでにある素材からつくる、とかそういうわけではなく、全く新しい天と地を、新しい秩序を再創造されるのです。

 

イエス様の12弟子の一人にペテロという人がいましたが、彼もイエス様から終わりの時についていろいろ語られ、彼は手紙の中で「…しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と書き伝えます。

 

どうせ神様は何も見てくれていない、諦めよう、ではなく神様はこれを準備されている事。まさか、という時に突然終わりの時が来る、全てが変えられる日が来る、神様がその日を迎えさせてくださる、これまでとは違う新天新地を神様は創造され、迎えさせて下さる事をここで明言している、そこに神様は向かわせてくださるから、私たちは希望を持つ、待ち望もう、と。

 

この時天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまう、のです。天の万象が完全に崩壊して、見る影もなくなってしまいます。私たちの見る様々なものはすべて新しくされます。そして神様を信じて救い出された神様の子どもたちのためには、義の住む新しい天と新しい地とが備えられているのです。神様が全てを備えてくださっている。義の住む、神様の永遠の愛にあって治められる、そこに私たちは招かれているのです。溶け崩れ、終わっていくものと共にする絶望ではなく、イザヤの時、またイエス様の時、ペテロのこの手紙を書いていた時、いずれもその時語られたのは、そこに神様が招いてくださっている、今その途上にあるんだ、ここに希望があるんだ、神様ご自身を待ち望もう、と語られているのです。

 

それだけではありません。↑で神様は、先の事は思い出されることなく、心に上ることがない、とおっしゃられますが全ての痛みは拭い去られるのと同時に、私たちの罪によってもたらされる悲しみはすべてなくなるのです。12弟子の一人のヨハネは復活のイエス様から啓示を受けたと言いますか、終わりの時に完成する御国を見せられ、「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」とその様子を記録に残します。神様が、ぬぐい取ってくださる。

 

まさに神様が「だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない」と↑で仰られている通りです。いつか終わる、良かったり悪かったりを繰り返すものではなく、神様の喜びが常にそこに広がる、神様の楽しみがあなたの楽しみとなる、神様の楽しみを私たちは味わわせていただけるのです。スッテン、バッテン、滑った、転んだ、思うようにいった、いかなかった、そんなような不確定なものではなく、完全なる神様があなたの内に与える命はいかほどばかりか。

 

もしかしたら、人は喜怒哀楽があるから人間らしいんだ、という人もいるかもしれませんが、それは世がもたらすものの中で起こる事、神様がもたらして下さる事の中で、今私たちが持っている喜怒哀楽以上の良さがあなたの内にもたらされる、そう考えるとわくわくしませんか。神様があなたに新天新地に迎え入れてくださる。今その準備がされている、神様があなたのために用意してくださっているんです。これほどワクワクすることはありませんね。この神様があなたを今日導いて下さっているのだから、なおさら希望が溢れますね。いつまでも楽しませてくださる神様が、その希望に向け今日も共におられ、導いて下さるのだから。

 

神様はさらにイザヤに「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる…」と語られます。

 

これは、新天新地の前の千年王国と呼ばれる時について神様が示されたものになりますが、新天新地の前に1000年のイエス様による完全なご統治がなされる、その時のことについてこのように語られているわけです。詳しいことはまた黙示録の分かち合いをする機会があればその時に触れたいと思います。ただ言えることは、昨日分かち合わせていただきました、かつて離れてしまっていたイスラエルの民も、私たちも確かに神様は招かれておられるという事。神様は変わることのない永遠の愛に私たちを今日招かれているのです。

 

神様によって生き、神様のくださる住まいに私たちは住まう、何と感謝な事でしょう。千年王国にしても、新天新地にしても、私たちは、確かにイエス様の十字架によってここに招かれるのです。イエス様がこの希望をもたらしてくださるのです。死が死で終わらず、永遠の神様との関係、この世のものでは測れない、神様のくださる恵みの中をいつまでも喜び楽しませてくださる、神様は我が子のために、神様ご自身の造られたあなたという存在が損なわれるのではなく、このあるべき神様との関係にもう一度招くために、御子イエス様に私たちが今持つ悲しみも痛みも涙も、罪による死も一切をイエス様に背負わせ、十字架に架けて、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてこの永遠の内に、完全な神様の御国へと招かれている、今日も導かれているのです。

 

このイエス様の十字架による救いゆえに、今日私たちは新しい命を、永遠のいのちを、神様と和解させていただいた、神様が日々創造される、神様があなたを古いあなたから新しいあなたへと変えてくださった、日々あなたの内に現される恵み、祝福の内を今日歩むことが赦されている、招かれていることに感謝しようではありませんか。この世では測れない、もたらすことのできない、神様にしかもたらせない、御子イエス様のいのちにあって今日あなたにもたらそうと招かれている永遠の御国への旅はもう始まっている、私たちはこれだけの愛を注ぎ、今日もあなたにこの最善へ、御国へ招かれていることに希望をもち続け歩もうではありませんか。あなたは今日、何を、誰を待ち望んでいますか。