―あなたを本当に憩わせる方から離れていませんか?― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は仰せられた。『まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ』と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。『羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。』このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです。どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか。まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。主よ。なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。あなたの聖なる民がこの地を所有して間もなく、私たちの敵は、あなたの聖所を踏みつけました。私たちは、とこしえからあなたに支配されたことも、あなたの御名で呼ばれたこともない者のようになりました。」

イザヤ書63章8-19節

 

私は本当に小さな頃は病気がちで、母親に何度も背負われて病院に駆け込まれていたそうです。私が知らないだけでどれだけ助けられていただろう、と思います。当時子どもの私にとってはどうにもならない状態、でも疲れも都合など何も考えず、ただ私を助けたい思い一心だったんだな、と思います。でも何より神様が私を背負って今日までいろいろありながらも導いて下さったんだな、と思います。神様が全ての内に働かれて、今日まで守られてきたこと。私たちは神様に委ねて良い、神様の熱心が今日もあなたの内に注がれているから。

 

さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様は神様の驚くべき救い、光が私たちの上に覆い、そこからさらに神様の恵みが溢れ流れさせ、必ずあなたを晴れやかで心震え、喜ぶ日を迎えさせてくださる事を神様が語られてきた一方、終わりの時に起こる裁きの時についてもはっきり語られてきました。ただ、その裁きから赦しを受けるために今、あなたを救おうと語られている事、身代わりにその血を、裁きをイエス様が負われることが語られてきました。そのような民、私たちのために、御子イエス様がその命を身代わりに差し出され、血を流され、裁きを受けられた、本来そんな愛を受ける資格など私たちはないはずなのですが、神様はそれでもあなたに生きてほしい、と願われ語られるのです。そして新しい命の血を私たちに与え、神様の子として生きることが赦された、神様の永久の変わらない慈しみが今日も注がれていることを熱心をもって語られ、示されるのでした。

 

↑は一昨日分かち合わせていただいた箇所とほとんど重なっているのですが、後半部分に一昨日はあまり触れることができなかったので、少し深堀をしていきたいと思います。神様はイザヤを通して「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と語られるわけですが、これは本当に感謝な話ですね。親から、もしあなたなんかもううちの子ではない、なんて言われた日にはどう思うでしょう。なら好きにする、と言いますか?でも家族の縁を切られると、頼るところがなくなりますし、何もできない子どもならなおのこと絶望です。

 

これを言われたのは、当時神様から離れ好き勝手にしていた民に向けて神様がイザヤを通して語られていたことです。ですから、彼らはこの先バビロン捕囚に向かっていく事になります。しかし、そんな彼らを神様は見捨てるのではなく、それでも彼らはわたしの民(家族)、偽りのない子たち(それでも間違いなく我が子)なんだ、というのです。サタンなんかが、ほら見たことか、と突っ込んでくるところ、それでも我が子ゆえに彼らにその御手を伸ばされるわけです。世が何と言おうと、彼らは我が子なんだ、と。だから、「こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」とその思いを語られるのです。

 

個人的な話になりますが、私は本来生まれてくるはずのない人間でした。私の母は長男、次男の間、また次男から私の出産にかけて何度も流産、死産を繰り返していました。今考えますとハイリスクを負っていたのでしょう。私が生まれるまでの間もそんなことがあり、もし母がもう出産を諦めていたら、私は存在しなかった。神様が母を励まし、守ってくれたんだな、と今でも思います。そうして生まれても、やはり小学校に上がるころまでは虚弱体質(私を知っている人はえ?と思われるかもしれません)、そしていじめや、大学1年次の自殺未遂、様々な事がありましたが(書いていくときりがないのでこのことはまた機会があれば)、それでも今日生かされているのは、確かに神様が私を「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」と、その言葉通りに背負われ、抱きしめ導かれてきたことを日々実感しています。それは何かの夢物語でも何でもない、今もなお生きて働かれる神様の現実の愛なんだ、と。

 

それは私たちもいろいろ歩んでいればそう感じられない時だってあるでしょう。それこそ神様が「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」と指摘されている通り。彼らの現実はバビロン帝国の脅威など様々ありましたし、生活においても様々な問題が当時あったのは否定しません。しかし神様はそれらを放置される方なのでしょうか。

 

その時神様は民に、古のモーセの日が「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた」ものだったのを思い出させたのです。彼らが偶然思い出したのではない、ここで神様が指摘されていた聖霊様への攻撃、その聖霊様がむしろ思い出させ、彼らを神様に立ち返るように、思い起こさせてくださったのです。一発で裁こうと思えば裁ける中で神様はそれでも彼らの救いとなろうと彼らに御霊様によって思い起こさせたのです、神様がいかなる方なのか。

 

神様は、イスラエルの民がエジプトの奴隷として約400年近くとらえられていた時、絶望の中にある彼らを見捨てることなく祝福されていました。当時のファラオが彼らの背後にいる神様を恐れたほどに。しかしイスラエルの民は神様を信じることができずどうにもならなくなっていました。しかし神様はそれでもモーセという人を立て、彼を通して多くの奇跡をおこなわれ、ついにファラオ、エジプトから脱出させてくださったのでした。ただ脱出して順風満帆だったのか、といわれたらそうでもなく、最初に紅海とエジプト軍によって挟まれたことがありました。しかし神様はその紅海を割ってイスラエルの民を渡らせ、彼らを陸に再び引き上げられたのです。その荒野の旅路においても、何も食料も水もない中でも神様は日々養われ、敵と戦っても神様が共に戦われ、いつも御霊様が彼らを導いておられたのです。昼は雲の柱、夜は火の柱、と24時間365日、40年の旅路にあっていつも。途中見捨てられてもおかしくない場面が何度もあっても神様は愛することをやめませんでした。40年の旅路が終わった時、モーセはその時「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった」じゃないか、というほどに。

 

私たちはどうにもならない時、神様と敵対すると言いますか、どうして神様、と離れようとします。しかしあなたを背負い導かれている神様を信頼しないでどうなるでしょう。むしろ御霊様があなたのために戦ってくださっている。神様があなたの味方ならだれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。あなたのために命をかけて戦われた御子イエス様が今日あなたと共におられる、その命はイエス様の十字架の身代わりの救いにあって与えられたものです。何を恐れる必要があるでしょう。

 

イザヤは「このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです。どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか」と言っていますが、神様は神様の輝かしい御名、その栄光を、御業を、熱心な思いを、力ある御業を現されているのです。神様はその思いを押しとどめるお方ではなく、まさにこのモーセの時代然り、イザヤの時代然り、確かに現されるのです。それを今、神様はイザヤを通して民に、私たちに訴えているのです。

 

神様は私たちの痛み、悲しみ、思い煩い、主に、何より罪という最大の敵と戦うため、御子イエス様を私たちのために人として生まれさせてくださり、その重荷を一緒に背負ってくださりました。その思いを、存分に現された、まさにあなたの内に救いが、神の国が広がることを、イエス様が住まわれる聖なる輝かしい御住まいとするため、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、これらに完全に勝利された、死は過ぎ去った、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

命をかけて戦われた神様の愛が、情熱が、今あなたの内に現されています。なんとなく、困っているならお手伝いしますよ、とかそういうレベルではなく今神様はあなたを背負われ導いて下さっている、神様のおられるところ、この命の内にこそ本物の憩いがあるのです。イエス様の御名によって今私たちはこの新しい命へと招かれているのです。イエス様のいのちゆえに、真の父なる神様となられたのです。今イエス様のいのちゆえにあなたの内に神様が現わされる大いなる御業、輝かしい栄光に大いに期待しようではありませんか。私たち自身も神様への情熱を忘れず、イエス様の十字架で結ばれた命ある神様との関係を大いに喜び、またいつも求め歩みたいものです。