―赤い色に染まった理由は― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「『エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。』『正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。』『なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。』『わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。』」

イザヤ書63章1-6節

 

更生のために尽力されている方を幾人か知っていますが、どれだけ心割きながらされているのか、私の想像にも及ばないものがあるのでしょうね。それでも、その人がどうにか更生、変えられることを願って心を注ぎだす。神様も、あなたに何とか命を得てほしい、とその罪で汚れ、疲れ果てた私たちを新しくされるため、イエス様を身代わりに十字架に架けられ、その地をもって洗い流し、神様の子へと招こうとされました。御子イエス様の血、涙をもって。あなたはこの愛を受け、どう生きるでしょうか。

 

さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様は神様の驚くべき救い、光が私たちの上に覆い、そこからさらに神様の恵みが溢れ流れさせ、必ずあなたを晴れやかで心震え、喜ぶ日を迎えさせてくださる、と。その日、あなたの上に神様の義の太陽が輝き、あなたを回復させること、またイエス様が、あなたの苦しみに対して黙っておられず、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやす、神様の驚くべき愛をもって失われた魂を回復させてくださる、罪の奴隷から神様の子へと回復させて下さる事を語られてきました。神の御子イエス様のいのちとともに与えられる真の恵み、富と共に神様の愛が注がれる、とこしえに養い導かれることを。

 

神様は今度はエドムという国について「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。…正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ」と言及されます。ここで語られるエドムはイスラエルの兄弟国になります。イスラエルの父祖、アブラハムの息子、イサクの双子の息子が兄エサウと弟ヤコブになるのですが、そのエサウの子孫の国です。

 

神様はかつて弟ヤコブを通してイスラエル民族を繁栄させると約束されていました。彼が生まれる前から。ただ彼の父イサクはヤコブを愛し、彼に長子の権利(財産と共に神様の祝福を受ける)を与えようとしていました。母リベカはヤコブを愛し、というよりも神様からヤコブへの祝福の預言を聞いていたので、ヤコブに何とか祝福が注がれるように行動していました。字面だけを見ると、偏愛なのかな、と思うところですが、リベカが出産前に神様の計画を聞いてたこと、ヤコブが祝福を受けるためなら、自身が呪いを受けても構わない、と決意を現すほどでした。そもそも神様の約束も然り、エサウ自身、長子の権利をないがしろにし、おなかがすいたから、とレンズマメスープ一杯と引き換えに売り渡してしまったほどですから、エサウという人自身に問題があったのですが。

 

何があったのかと申しますと、ある日父イサクはもう自分はだめかもしれない、と祝福・長子の権利をもってエサウを族長にしようとしたのですが、その時イサクは彼の好きな動物の料理を作ってほしい、と頼み、エサウはかりに出たのですが、その間にリベカは事の次第を知り、その間に料理をし、イサクにこれを持たせ、エサウのふりをして祝福を受けるように仕向けたのです。これで父イサクが騙されたことを知ってヤコブを呪おうとしても、その呪いはリベカ自身が引き受ける、と。

 

確かに方法は悪かったかもしれない。この結果、だまされ権利を奪われたエサウはヤコブを恨み、彼を殺そうと追いまわし、ヤコブは逃亡生活に入ることになるのでした。ただ、だまされたことを知ったイサクはでは呪いをかけたのか?いえ、彼を改めて祝福し、彼を叔父の家にかくまわれるようにアドバイスをします。結果リベカもヤコブも呪いを受けたのではなく、神様の御心がなった。リベカも自分を犠牲にしてでも神様の御心がなることを願ったのでした。

 

実はこの騙されたエサウ、祝福は残っていないのか、と父に尋ねても期待した答えは返ってこないのです。ただ彼は神様の恵みをないがしろにしていた、どうでもいいこととしていた、その結果本来受けるべき恵みを彼は失っていたのです。ただ、神様は彼を見捨ててはいなかった、彼の家族、財産をヤコブのように増やしながら、神様の愛を彼に向けていたのです。そして彼自身ヤコブと和解した際、十分自分には祝福があるのだから、とヤコブの謝罪・誠意の贈り物を受け取りませんでした。それほどの祝福を得ていたのです。土地においても、イスラエルの民が出エジプトを神様に導かれて果たし、約束の地に向かう際、エドムの土地を奪うことを神様は禁じ、彼らの土地を守られていた、それほどに神様は彼らに御目を注がれていたのです。

 

ただ、彼の子孫エドムの一族はこれに納得せず、自分たちは神様から排除された、祝福されていない、ヤコブは大いに祝福されている、それに憤慨し、いつもイスラエルが弱るたびに彼らを攻撃する、助けるどころかかえって攻撃をする、そのエドムに対して神様は裁きの宣告を↑で「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。…わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ」と語られているのです。あ、↑ではボツラとありますが、これはエドムの首都だそうです。

 

エドムについて、同じイスラエルからわかれた兄弟国であるにもかかわらず、前の章までは神様はイスラエルの民を、イエス様が、私たちのいのちのためなら命さえ惜しまなかったイエス様が私たちを神様の永遠の御国へと導かれる、守られることを宣言されていたのに、ここではエドムに、終わりの時にかえって彼らを裁くためにイエス様が来られることを語られるのです。エドムへの裁き、それ故に血がイエス様の衣に降りかかる、というのです。

 

神様は愛の神様なのに、と思われる方もいるかもしれません。ただ、エドムの歴史について先ほど触れましたが、その後の事も含めて、神様は何度も彼らに語られ、その御手を伸ばされ守られながら、何とかして神様に立ち返ってほしい、とその愛を示してこられたのです。最初から怒りしかなく、復讐をされるわけではなく、それは終わりの時だ、というのです。それまで神様は時を引き延ばされているのです。何とかして命を得てほしい、と願っているからこそ神様は語られ、その御手を伸ばされているのではないでしょうか。

 

その思いは私たちに対しても同じなのです。神様は私たちの衣が、神様から離れ好き勝手に歩んで傷ついていく事を、汚れていく事を、何より罪によって汚れたままでいることを良しとできず、その汚れ、傷、罪を一切洗い流したい、と、あなたを癒したい、といつも語られ、またその御手を伸ばされている、御目を注がれているのです。なぜ終わりの時の裁きについて神様は今、彼らに向けて語られているのか、それは今こそ彼らに命を得てほしい、古い汚れた、罪による血、裁き、死による血で覆われてしまった私たちをもう一度神様の恵み、新しい命の衣で、恵みで覆いたいという思いがここに込められているのではないでしょうか。あなたへの裁きの鉄槌を降すのではなく、あなたが悔い改め生きてほしい、と。

 

そのためならイエス様は、私たちに下される裁き、神様の怒りを自身に降されることを引き受けられたのです。↑でリベカが呪いを受けなければけないなら自分が受ける、といったことを申し上げましたが、それはヤコブが本来受けるべきいのちを得てほしい、と願ってのこと、またエサウにも、そのことをきっかけに神様に立ち返って本当の祝福を神様ご自身から受け取ってほしい、という思いがリベカからきていました。

 

そのリベカ以上の思いをもって神様はあなたを救おうと、御子イエス様の上にその怒りを降されたのです。黙って放っておけばいい、と神様は考えず、かえって御子イエス様に私たちへの怒りの杯、裁きを御子イエス様の頭上に返し、私たちの身代わりにその罰を引き受けられ、私たちの身代わりに血を流し、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、古い衣、いのちを脱がせ、新しい神様の子としての衣、いのちであなたを覆ってくださるのです。あなたが受けるべき血、裁きの血をイエス様がご自身に返し、すべてを引き受けられたのです。あなたには神様の怒りの血潮ではなく、完全な愛、イエス様の十字架の血潮で流された愛によってあなたを今日、覆ってくださるのです。

 

神様の裁きをその身に身代わりに受けて傷を受け、血が流されてでも、あなたが神様と引き裂かれることを望まず、この道を進まれたのです。このうちに、イエス様のいのちとともにあなたに神様はすべてを備えているのです。私たちのみの周りを、人生を振り返ってみてください。神様はいつでもそこにおられたではありませんか。怒りの裁きで見捨てるのではなく、あなたに語り導かれてきて、今日あなたがあるではありませんか。

 

神様は↑で「わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した」と語られていますね。

 

神様はあなたへ復讐の日を告げ成されるのではなく、あなたを御子イエス様のいのちをもって贖い、買い取ってくださってまであなたを救いに来られた、助けるものが他になくとも神様は最後の最後まであなたにその御手を伸ばされあなたを待っておられます。あなたを踏み潰すのでも、世に、罪によって踏みつぶされるのではなく、かえってあなたを支え今日共に歩んでくださっているのです。神様の御腕が今日もあなたに伸ばされ、黙っていることなくその愛を現されています。もう私たちは神様から離れ、この頂いた命を、衣を自らの手で汚してはいけない。今こそ私たちはイエス様が身代わりに血を流され、罰せられた、この愛を汚すことなく、神様のくださったこの命の内を歩ませていただこうではありませんか。今こそ復讐の日ではなく神様の救いの日、勝利の日。私たちはイエス様の流された血潮、父の涙によって今日生かされている、愛されていること覚え、イエス様の恵みによって広げられたこの命の道、新しい命を喜び歩もうではありませんか。正義を語り成し、力強い御手をもってあなたを今日も導かれるから。