―あなたを見捨てず黙っていない方がいるじゃないか― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。あなたはもう、『見捨てられている』と言われず、あなたの国はもう、『荒れ果てている』とは言われない。かえって、あなたは『わたしの喜びは、彼女にある』と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」

イザヤ書62章1-5節

 

愛の反対は無関心と言いますが、何で無関心になることがあるのか。そもそも関心がない、とか、忙しくてそれどころではない、という要素もあるのかな、と思います。今そこまで頭が回らない、と。まあ、私たち自身の生活もありますし、それを一概に責めるのも無理な話なのかもしれませんが、神様はあなたに無関心になることはありません。忙しいとかそんなことをせず、あなたのためなら御子イエス様のいのちを与えてまで救いたい、あなたを丸ごと救い出したいと行動を起こされる神様です。あなたに新しい日、朝日を昇らせてくださる神様が今日あなたを導かれます。あなたはこの神様の呼びかけにどう応えるでしょうか。

 

さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様は神様の驚くべき救い、光が私たちの上に覆い、そこからさらに神様の恵みが溢れ流れさせ、必ずあなたを晴れやかで心震え、喜ぶ日を迎えさせてくださる、と。その日、あなたの上に神様の義の太陽が輝き、あなたを回復させること、またイエス様が、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやす、神様の驚くべき愛をもって失われた魂を回復させてくださる、罪の奴隷から神様の子へと回復させて下さる事を語られてきました。神の御子イエス様のいのちとともに与えられる真の恵み、富と共に。

 

神様は本当に様々な約束をこのイザヤ書の中で語られてきましたね。神様が約束されるという事は、空しくかえってくることはなく、神様ご自身の御名によって果たされるのです。未来のことだから信じられない、後に何があるかなんてわからないじゃないか、と私たちは思うところですが、しかし明日を保証されるのは神様です。明日何があるかわからなくても、確かに神様がおられる。それがどれだけあなたにとって励ましになるか、力強い事なのか、どれだけ実感しているでしょうか。

 

神様は黙っておられない神様です。だから語り続けてこられたのです。イザヤの人生の大半の中で彼を通して多くの御言葉を語り続けた神様。今も神様は黙っていないのです。今、イザヤの目に見えるのは国内の悪王マナセによる圧制、外を見渡せばバビロン帝国の台頭。しかし、神様はここでイザヤを通して「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは」と語られます。

 

私たちは目の前の問題に神様は応えてくれない、とどうしても考えてしまいます。いつまでこのような状況が続くのか、神様は本当にいるのだろうか?どうしているなら何もしてくれないのだろう、と不安になります。しかし、今神様はイスラエルの惨状について黙っていない、というのです。彼らは神様から離れ、好き放題この時も、この先もしていきます。一時的に宗教改革的なことは起こりますが、それも一時だけ。どんどん堕落に向かっていきます。神様はもう見捨てる、沈黙してもいい状態だったのです。しかし、この先も神様はやはり多くの預言者を送られ、語り続けます。救いの道を何度も何度も示され、今から後に至るまで時に奇跡を通しても神様は彼らを導こうとされるのです。そんなシオン、エルサレム「のために」も。

 

神様は黙ってはいない、語られる神様です。神様のことばはただ口うるさいアドバイスではなく、私たちに生きてほしいから語られる、私たちに神様の恵みを注がれるのです。バビロン捕囚を生き抜き、やがて解放された学者であり歴史家であるエズラは、そのような厳しい人生を歩んできた中でも、確かにそれは神様の恵みを知らせるもの、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘い」と語り、またどんな絶望下であっても、消えることなく照らされ続けた、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と告白、詩に書き残しました。神様は語られるだけではなく、その語られたことを行動をもって実現させる、行動においても黙ってはおられない神様なのです。こんなシオン・エルサレム、そして私たちのためにさえ。あなたの内側、魂まで満たされる、あなたを丸ごと神様の愛で包まれるのです。

 

それはいつまでか。神様はここで「その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは」と語られます。イスラエルの民から見れば、やがてくるバビロン捕囚からの解放の日まで、です。暗闇が明け、新しい朝を迎えるまで。ただ、「その救いが、たいまつのように『燃えるまで』は」ということは、神様の救いは救われて終わり、救って終わり、ではなく、聖霊様の炎は、その灯は消えることはありません。あなたの内に灯され続けているのです。その聖霊様を通してあなたを強め、満たし、また導かれます。神様がもう一度灯された灯を私たち自身の手で消してはいけません。神様はあなたに新しい命を与え、そのうちに神様の栄光を現したい、その光を灯し、導きたいのです。

 

そのとき何があるのか。神様は「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる」とさらに語られていますね。ただ何となく希望が持てた、とかそういうレベルの話ではなく、その神様の御業を体験的に見て、神様のすばらしさを知るのです。そして、私たちはその神様の御業によって、救いによって、新しい名前で呼ばれるのです。神様の子、新しいあなたとして。

 

この「新しい名で呼ばれる」という事について、まさにこれを私自身受けたことがあります。すでに天に召されましたが、ある預言の賜物がある方(未来を予想する預言ではないですよ?神様のことばを預かり語る)のミニストリーを受けていた時、「〇〇さんに新しい名前を与えるように導かれた」と語られ、御言葉を持ち出し、わたしに「ペテロ」という名前を付けてくださりました。その際与えられた御言葉からこの名前が付けられ、神様が彼を通して語られた、私の果たすべき役割を語られました。その後の私の大きな決断にもこのことが影響をしたことを覚えています。

 

話を戻して、神様はときに新しい名前を与えます。イスラエルの父祖、アブラハムは、もともとはアブラムという名前でしたが、神様が彼に新しい名前を与えました。またそのアブラハムの孫のヤコブは、神様と出会って帰られた時に、「イスラエル」という名前が与えられました。他にも12弟子の一人で有名なペテロは、イエス様に「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」と語られ、彼に岩=ペテロという名前を与え、それ以降彼の名前はペテロと呼ばれるようになります。そして彼の人生は変えられていきました。

 

さらにパウロ。彼はキリスト教の迫害者、もともとの名前はサウロでした。古代イスラエル王国初代の王サウルから取られたとか。彼は宗教家としても将来有望でした。しかしイエス様と出会って、イエス様に新しい名前を与えられた言及はありませんが、彼は途中からパウロという名前で名乗り始めます。これは「もっとも小さな者」という意味です。彼の人生は変えられ、もしかしたら周りから見たら小さくなったように見えたかもしれません。しかし彼は神様の御前に遜り、小さな者とされた、しかし、その彼の内に神様が存分に働かれ神様の御業が彼を通して現わされ、語られ、多くの人がクリスチャンへと導かれていきました。神様の大きな愛が彼の内に現れ、また神様の愛がさらに大きく広がったのです。

 

そう、結局新しい名前を与えられるにしても、どう生きるか、それが大事なのです。まあ私もそうなんですが。神様は、名前、というよりも新しい命をあなたに与えられました。その命にどう生きるか、それが大事なのです。これを書きながら耳が痛いところです。それゆえに私は今日も神様を求めます、神様なしでは私は生きられないから。

 

本来神様の御前に高ぶり好き勝手に生きている私たちの名前などすたれ、忘れられてもおかしいはずだったのです。神様が沈黙され、捨てられてもおかしくはなかったのです。しかし神様は私たちを見捨てることをなさらず、かえって私たちがまだ罪の内にある時から、私たちにまず愛を示され、私たちの思い煩い、痛み、何より罪も一切身代わりにイエス様に背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる。新しい命が与えられる、新しいあなたとされるのです。罪人の私ではなく、罪赦された神様の子としての私、新しいあなたへ、新しい名前とされる。神様の御業が、義が、栄光が、愛があなたの内に豊かに現される新しいあなたへ。イエス様の花嫁として今私たちはその冠をかぶせられ、招かれているのです。

 

神様は↑の最後で「あなたはもう、『見捨てられている』と言われず、あなたの国はもう、『荒れ果てている』とは言われない。かえって、あなたは『わたしの喜びは、彼女にある』と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」と語られます。神様は見捨てられたあなたとも、荒れ果てているあなたとも呼ばず、その愛を現されることによって、その喜びで満たされることによって、夫のある国、神様が共にいる、神様に愛されているあなたという名、体へと変えられていくのです。神様ご自身のその御業が、ご計画があなたの内に現されるのです。

 

あなたを見捨てず、荒れ果てさせないために、今日も黙っていない神様が、御子イエス様のいのちを身代わりにされてまであなたを愛され、取り戻された神様が今日もあなたの内にその恵みを注がれています。過去の古い罪人から、神様の喜びで満たされた新しいあなたに。神様は今日あなたにどんな素晴らしいことをされるのでしょう。それは今日、明日だけにとどまらず、終わりの日、神様の栄光の日が来るまで続く。ですから私たちもこの神様から離れず、沈黙した関係ではなく、神様を喜び、あがめ、祈り命ある関係の内を歩みたいものです。