―暗闇がどんなにあがいても光には勝てません― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

イザヤ書60章1-3節

 

5年ほど前でしょうか、北海道の胆振地方で大きな地震があり、それにともない全道でブラックアウトが起こりました。私は胆振地方ではありませんが、それでもこのブラックアウトの影響を大きく受け、いつまでも電気はつかず、連絡・情報収集手段であるスマホも充電できず、連絡手段を失っていました。近代社会において電気がないのは致命的で、様々な不具合が生じます。生活もでした。しかし、神様の光は決して消えることなく、時には先輩牧師の送ってくださった礼拝DVDが助けとなったり、神様ご自身が必要なものを様々な方を通して届けてくださりました。物理的な光もそうですが、どんなに暗い問題があろうとも神様の光に勝ることはできません。神様の光を消すことはできません。希望を消すことはできません。ですから私たちも、神様に最後まで希望を持ち続けよう。神様は終わりの時まであなたを今日も導かれ続けるから。

 

さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様が公正と正義を今なそうとしてくださるのだから、今神様を求める事、また安息の内に招かれること、永遠の名、イエス様の御名において私たちを神様につなげてくださっていること、その安息に、花嫁として招かれていること、そのイエス様が終わりの時、必ず戻ってこられ勝利を治めてくださる、だからこの神様に従い続けることを訴え、神様の与えてくださる地、恵みに生きる事を訴えてこられました。何より神様ご自身が遜られ、心砕かれ私たちを救いに来てくださった、形骸化された関係ではなく、とこしえに続く神様の恵みの関係へ、遠く離れてしまった私たちを見捨てず、御子イエス様が人となって生まれて来てくださった、内臓がひっくり返るほどに心を痛められた神様が命をかけてあなたを救いに来られたことを訴えてこられました。

 

前の章で、神様は「主(神様)は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた」と語られていましたが、それゆえに神様は私たちを救い出された、その救い出されたイスラエルの民、そして私たちに向けて、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ」と語られます。今、その救いが来た、ここから導かれることをまず神様は語られます。いうまでもなく、あなたの光、というのは光を放て、と仰られているとはいえ、これは神様の光です。

 

少し考えてみますと、灯って光源が強ければ強いほど輝きますよね。ろうそく、電球、時代とともに灯となるものは変化して強くなってきていますが、未だに超えられていないものがありますよね。そうです、太陽です。正確には、ろうそくにしても電球にしてもLEDであろうと、それ単体では光りませんよね。スイッチをつけるなり火をつけないと灯は灯せません。誰かがつけなければ明るくすることはできないのです。

 

太陽はそれ自体が燃えていますが、そもそもの話、これは神様が造られ、今の状態とされたのです。天地創造から今の今まで太陽がその光るのをやめたことはありませんよね(やめたら、私たちは生きていけないですよね、寒すぎたり暗すぎたりで)。神様がこの太陽を造られた、神様のご意思はあなたを暗闇に置くのではなく照らし、守られること(終わりの時には太陽は光を失う時が来るのですが)、神様の愛はまだあなたに注がれている、輝いているのです。昔造られて終わりではなく、今も輝いているのです。終わりの時には太陽が輝くことをやめるなら、神様は今もそれを止めようと思えばできる、でも神様はまだあなたを照らしてくださっているのです。

 

そういう意味では、太陽のおかげで私たちが生きていけるのではなく、それを輝かせてくださる神様がいるから私たちは輝かせていただける、生きることができるわけです。そもそも、太陽が勝手にできたわけではなく、太陽が先に造られる前に、神様は光をまず創造されましたね。

 

神様は天地創造の時の状況について、「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日」とアダムに伝えたか、その状況を伝えます。神様が、「光があれ」と言葉を発したところで神様の目から見ての良し、という最高の光を造られたのです。神様は何もないところから光をつくりだし、闇の中にあっても照らされます。完全に闇と区別されることのできる方なのです。そしてこの光、昼を太陽に管理させることになりました(月に夜を)。その被造物を通しても今、神様はあなたを守られているわけです。

 

その神様ゆえに今、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ」と語られるのです。今イスラエルの民の現状はこれまでイザヤ書でも触れてきたように、マナセ王という悪王によって国内は圧迫され、外からはバビロン帝国によって苦しめられている、いったいどこに救いが、希望があるんだ、と思いたい中にあります。しかし、四方八方ふさがれようとも、上が、天の窓は開かれ、神様が光が照らされる。ただ何となく希望的観測のようなものではなく、「光が来て」、「主(神様)の栄光があなたの上に輝」かせるよ、と神様が約束されているのです。だから目を覚ませ、起きよ、と。これを受け取るように、と。他の誰かが与える希望的な光ではない、神様ご自身が光源となられるのです。そしてあなたの内に輝かせてくださるのです。

 

ただ、それはただ神様が一時的に輝かせるものではない、神様ご自身、光が来られあなたを導かれる、永遠のメシヤ王国、輝く栄光の御国へと導かれます、永遠に続く御国へと。光って終わり、電池が切れれば暗闇に戻るものではなく、あなたの内に住まわれるその光があなたを導かれる。その光とは誰ですか?イエス様です。

 

↑で神様は「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる」と仰られていますが、これをイエス様が成就されました。

 

それを目撃したヨハネというイエス様の12弟子の一人が、イエス様が召天されたのち、イエス様の生涯を振り返り、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。…すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」と書き記しました。

 

ここで言われている「ことば」がイエス様なのですが、イエス様はいのちそのもので、全世界を照らす光なのです。その光が闇に輝くのです。闇はこれに打ち勝つことはできなかった、と。イエス様ご自身も「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と語られました。イエス様は世の光として来られました。一部の人ではなく、全ての人を照らす光として。ある一部の人ではなく、状況的にだれの目に見ても困難、救われるなどありえない、そのような状況の人にもイエス様は光を照らし輝かせるため、人となって生まれてこられたのです。神の御子であられるのに、王宮などではなく、貧しい若い夫婦の間に。どこか遠いところでではなく、最も内側に来られ、住まわれ、輝かせてくださったのです。象徴的なものではなく、多くの愛、具体的な奇跡も含め、神様の御心を現して下さったのです。そうして、本当の希望なる神様につながることができるように、永遠のいのちを持つことができるように、神様の子としての特権を受けられるように。

 

でもイエス様の働きはそれでは終わらなかったのです。私たちが暗闇の中をさまよう、神様から離れてしまい、闇の勢力、この世の思い煩い、様々な痛み、何よりサタンにとらわれ命を、神様のくださった恵みを失いさ迷い歩く私たちを救うために、この死という最大の暗闇を取り除くため、いのちの光を照らすため、イエス様は私たちのこれらの思い煩い、痛み、何より罪を一切身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦され、神様の子として迎え入れてくださるのです。先程12弟子のヨハネが「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」と書き残したことを紹介しましたが、まさにこの特権を受けるのです。

 

あなたを覆うどんな暗闇も、このイエス様の光、十字架と復活によって照らし出された光に勝ることはできません。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。それだけの強い絆が、イエス様の命がけの十字架による救いによってあなたと結ばれたのです。この絆ゆえに神様はその栄光をあなたの上に現され導かれます。ある時にその輝きを止めるのではなく、永遠の神様の栄光、御国に行く日まであなたを導かれます。この道には、イエス様がくださった新しい命のうちには神様の恵みが、命がけの愛を注がれた愛が満ち満ちている、満ち溢れているのです。

 

私たちはもう闇に、苦しみに、罪にひれ伏している場合ではありません。もはやイエス様の命がけの愛、光があなたの上に輝いているのです。今目を覚まそう。やがてくる栄光の朝へ向けてイエス様が導かれるのだから。イエス様の歴史的一回的事実、十字架の救いにあって、歴史上唯一の神の御子の死と復活によって輝いた特別な神様の光この輝きは、あなたのどんな道をも照らし、「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」と神様が語られているように、御子イエス様とかかわるすべてのもの(人、民、国、民族、場所など)にもその輝きが最高度に回復されるのですから。光の源泉たる神様、御子イエス様のいのちを惜しまず与えるほどに愛された神様の愛はまだ消えていない、むしろあなたの内に今日も輝いている、だから私たちもこの神様の究極的な光、愛に信頼し、その照らされた道を歩み続けようではありませんか。