―心を痛められた― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中に入ることもできない。そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。」

イザヤ書59章9-15節

 

私たちは一人では生きていけません。自分は大丈夫、という人、強いな、と思いますが、誰かが支えて、また支えられて今日があることは間違いありません。あなたは一人で生きてきたわけではないでしょう?こんな自分さえ見捨てられず、支えてくださった多くの人、そのような人を私の周りにおいてくださった神様、そして何よりこの私をも愛し、見捨てず、今日に至るまで支え導いて下さった神様がいる、これ以上の恵みはないのではないでしょうか。あなたに心を注ぎだされ、今日あなたに恵みを注ごうと神様は待っている、その神様に私たちは心を向け、立ち返り、共に生きようではありませんか。

 

さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様が公正と正義を今なそうとしてくださるのだから、今神様を求める事、また安息の内に招かれること、永遠の名、イエス様の御名において私たちを神様につなげてくださっていること、その安息に、花嫁として招かれていること、そのイエス様が終わりの時、必ず戻ってこられ勝利を治めてくださる、だからこの神様に従い続けることを訴え、神様の与えてくださる地、恵みに生きる事を訴えてこられました。何より神様ご自身が減り砕かれ、心砕かれ私たちを救いに来てくださった、その愛に今日、招こうと訴えられていきました。形骸化された関係ではなく、とこしえに続く神様の恵みの関係へと。遠く離れてしまった私たちを見捨てず、御子イエス様が人となって生まれて来てくださってまであなたを救いの来られたことを。

 

ただ、イスラエルの民の現実は、今まだ神様を疑い離れてしまっています。彼らを支配している、自国の王であるのにもかかわらず民を苦しめる悪王マナセ、バビロンの脅威が彼らを支配している状況。希望を持てない、と言われたら分からないこともありません。その希望を失った状態について、↑の前の箇所では「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と、神様のせいにする始末。神様の手が短いから、耳が遠いせいでこの声を惨状から救えない、気づいてもらえず救ってくれないんだ、と。

 

ただ、神様の御手が短い、などという事はなく、忙しく聞いている暇はない、と突き放される神様でもありません。むしろイエス様は天の高いところで見ているだけなのではなく、人となって生まれ降ってこられてまで私たちを救おうとされました。問題は、そのイエス様を受け入れず、でも自分は好きに生きているけど問題があれば神様にその責任を擦り付ける罪にある、と↑の前の箇所で指摘されているわけです。

 

まあ誰かのせいにする、責任を擦り付けるのはアダムとエヴァの時から何も変わっていないことが見えますが、そもそも神様は悪を働かれる方ではありません。むしろ全にして善を行われる神様です。このイザヤが語られた時代よりも先、バビロン捕囚を体験したエズラという人は、詩で「主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。…あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます」と歌いました。イスラエルはそのそむきの罪のためにバビロンに捕囚れされたわけですが、神様はイザヤや様々な預言者を通して語られ、また具体的に助けられ、時には捕囚先で民族滅亡の危機にさらされる、そのような事があっても、神様ご自身が介入され救い出されたのです。

 

彼らはこの苦しみの中でどれだけ心痛めたことでしょう。私たちも生きていると様々な苦しみに会います。しかしそれ以上に心を痛められたのが神様です。↑の一番最後で「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた」とありますが、「公義」、それはただ人間社会の中に正しさがないとかそういう事だけを言っているのではないのです。それは罪があるからそれによっておこる事とされ、ただ、神様の公義を現すことができない、そのような状態に心を痛めておられるというのです。神様はあなたに公儀を、正義を、真理・真実なる愛を現したいのです。神様は人の痛みを忙しいからと聞かず、また気に食わなければ聴かない、助けない、という神様ではなく、あなたの痛みを我が痛みとされ何とか癒そうとされる方なのです。

 

しかし、彼らにしても私たちにしてもこの神様の向けられた愛とは違う方向を向き離れてしまう。そもそもの話がそこに問題があるのです。それが「罪」というものなのですが、罪のある所に恵みも増し加わります。罪があるから神様は見捨てられるのではなく、そのようなどうしようもない私たちに神様はその御目を注がれているのです。ただ私たちは別な方向に向かいます。だから、罪の仕切りが私たちと神様を引き離してしまうわけです。

 

↑の前の箇所では、神様が救ってくれない、良いことをしてくれない(そもそも神様は先ほども申し上げましたがよいことをされる神様であり、逆に自分に都合のいい事だけを良いことをしてくれた、と思うことも問題ですが)という疑問について、「あなたがたの咎「アーヴォーン」が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪「ハッタート」が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と仰られていましたが、↑ではさらに「私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪「ペシャ」を犯し、私たちの罪「ハッタート」が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪「ペシャ」は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎「アーヴォーン」を知っている」と仰られます。

 

ここで罪とか咎と出ていますが、若干ニュアンスが違うところがあるのであえてここで原語の表記をさせていただきました。そもそも私はそんな犯罪のようなことはしたことがない、と罪を勘違いされる方がいるのですが、そもそもなぜ神様は罪を赦し救う必要があったのか、それがここに大きく現されています。

 

ここで神様の語られている罪「ハッタート」というのは、「的をはずすこと」を意味します。弓矢を的に当てるのをイメージされたら分かりやすいと思うのですが、そうすると的を外せばとんでもないところに行き、目的地を失います。その弓矢も失われて今います。神様はエデンの園に最善を備えてくださっていたように、私たちに最善を備え、いのちの内に招かれているのです。ところが、その的から、私たちは離れてしまった。神様の恵み、守りの中から離れてしまって、神様の霊によって生かされるはずがその霊を失ってはどうなるでしょう。それは結局的を外した、神様の恵みを失った人生となってしまうのです。しかし、神様があなたに最高の命を備えられたのに、それが傷つけられ、苦しみ、悩み様や負うことを神様はよしとできないのです。

 

的が外れていることは外れて終わらず、↑で語られている「ゆがみ」「ひずみ」「悪」「不義」「咎」を意味する「アーヴォーン」と、「神にそむき」「神と争う」罪である「ペシャ」がもたらされるのです。犯罪と言わなくとも様々な事を人はします。それは社会を見てもわかるのではないでしょうか。結局神様との正しい関係にひずみ、ゆがみが起こることで、神様の恵みを恵みと思わず、そのあいてしまった隙間を埋めるために様々なものを求める、神様は自分には良いことをしてくれない、と神様と争い、好き勝手に生き、その結果多くの痛みを負ってしまうわけです。しかし子が苦しむのを我慢できる親はなかなかいません。神様はあなたを造られた、その神様が我が子が苦しむことを心を痛められたのです。

 

もういい、というなら神様はわざわざ「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた」となんて語らないでしょう。むしろ語らざるを得ないほどあなたが苦しむ姿、神様の公正、公義、真理を失ってしまっていることに心を痛められたのです。

 

あなたはこの神様が心を痛められたことに対してどう感じますか。神様は神様の義をあなたの前を進ませ、導きたいのです。あなたの道を照らしたい、あなたを罪によるゆがみで苦しむのではなく、神様のいのちで満たしたい、どこを歩んだらいいのかわからず人生をさ迷い歩く私たちの手を取り、苦難、困難の中も共に進まれ、導きたい、そう訴えているのではないでしょうか。わが愛する子が痛む、その苦しむ姿を心痛められて。

 

そこで神様は、その痛みを放置するのではなく、むしろ救うために、私たちのために御子イエス様を人として生まれさせてくださりました。ただ高いところにとどまっているのではなく、どん底のどん底、神の御子としては考えられない境遇の中生まれ育ちました。しかしイエス様は何一つ文句を言うわけでもなく、その愛を現し続けたのです。どんなに裏切られ、罵られても。はては、その心の痛みゆえにあなたを救うため、ただ癒して終わりではなく、私たちの罪の代価として自らの命を十字架にかけ、罰せられたのです。イエス様は十字架上でもなお「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」と、私たちの赦しを懇願されたのです。いのちをもって。そして死なれました。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る罪を赦し、この歪んでしまった関係、魂、神様の霊を失ってしまった私たちを回復させてくださった、新しい命を与えてくださった、罪の奴隷という歪んだ、失われてしまった関係ではなく、神様の子として迎え入れてくださったのです。

 

今日、私たちはこの命をかけて取り戻して下さったイエス様の十字架の前に立ち返ろうではありませんか。御子イエス様のいのちをもってまであなたの痛みを回復させ、神様の霊、真理、いのちで満たそうとあなたを招かれた、その神様の愛にあなたはどう感じ、どう応答するでしょうか。今日あなたの前を進むのは神様、この義なる愛があなたを導かれるのです。私たちは神様から遠ざかるのではなく、いのちをもって招かれたイエス様に大胆に近づかせていただこうではありませんか。イエス様はイエス様、自分には関係ないではなく、あなたを命ある、関係ある、神様の家族として迎え入れた、その神様があなたの内に成そうとしてくださっていることに大いに期待しよう。痛められた心を実際に行動に移された神様に信頼し歩もうではありませんか。