―安息を求めて1:義が現わされる― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はこう仰せられる。『公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。』幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。」

イザヤ書56章1-2節

 

私たちはどこかで安息と言いますか、平安であることを望みます。ただ、少しでもいい生活を、と考えて仕事に明け暮れたら、それはどうなのでしょうね。仕事も生きていくうえで大切な事なのは間違いないのですが。しかし、私たちが忘れてはいけないのは、私たちのために全てを備えてくださっている方、神様がいる事です。神様は私たちを本物の安息へと招かれました。私たちの重荷も痛みも悲しみも、何より罪をも身代わりに背負われ、罰せられてまで。私たちはこの命がけの招きにどう応答するでしょう。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期から捕囚後について神様がイザヤを通して預言されたものの続きになります。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために神様が心血を注ぎ救われること、驚くべき良い知らせを、救い主イエス様の誕生について語られてきました。そのイエス様についてしもべの歌にて、神の御子であられながらそのありようを捨てられないとは考えずに、罪を犯さないという点を除き完全な人となって生まれ、徹底的に仕え、ついには罪がないイエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ、その傷も病も、一切を引き受け、打ち砕かれ、復活のイエス様ご自身が住まわれあなたを輝かせる、神様の御業が輝くこと、そこに全てのよきものを備えて待っているから、とイエス様ご自身があなたを招かれることを見ました。ただでこの恵みを注ぐために、あなたに会いに来てくださったことを。

 

神様はなお「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ」と語られます。どうも、この56章からはイザヤが老年の時に語られたものと言われ、ここから最後の66章までは永遠の安息への招きについて語られています。ただ、若いから、壮年だから、老年だから、こうしなければいけない、という事はありません。イザヤが年だから、「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ」とここで神様は訴えているわけではありません。

 

むしろ語られているのはイザヤを通してイスラエルに向けられたものであり、私たちに向けられたものですから、昔だからどうの、今はわたしには関係ない、とかそういうことはありません。「救いは近い」、「わたしの義が現れるのも近い」と仰られている、神様は今、あなたに恵みを注ぎたい、今だからこそ「公正を守り、正義を行な」うよう訴えるのです。

 

私たちは下手をすれば「神様がどっちみち救ってくださるのなら、私たちは気ままに生きていればいいや」と考えやすいですが、そうではないのです。むしろ主が救ってくださるのだから、私たちは義を行なうべきなのです。

 

では、その義、とは何でしょう。何か良い行いをすること?何か正しいことをしたら神様の義がいただける、ではおそらく一生いただけないでしょう。1世紀の伝道者、パウロという人は「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」と書き送りました。ひとりもいない、とありますが、パウロはでは自分は違う、と言いたいのか?そうではない、自分もそうではないのです。むしろだから「神様を求める」生きる事が私たちには必要なのです。神様なしに正しい人などいない、神様が私たちの内に義を現し、私たちは生きたものとなるのです。

 

神様はハバククという預言者を通して「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる」と語りました。この「正しい人」というのが義人のことを指すのですが、神様が本当の意味で生きたもの、真直ぐに歩ませてくださる、神様に信頼をする中で私たちは生きたものとされるのです。

 

このことについてパウロはさらに、「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と手紙に書き、これを諸教会、私たちに向けて送りました。神様は、イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけられた、この救いの力、愛を、恵みをあなたに豊かに注ぎたい、これをあなたに今、受けてほしい、と訴えているのです。信仰に始まり、信仰に進ませる、と言いますが、まさに神様から始まったすべてのことを神様が導かれる、神様の恵みのうちへと。後でいいや、では今神様があなたに成そうとしている良い計画、あなたに注ぎたい恵みをどうして受け取る事ができるでしょう。

 

それは今の時代様々ありますよ。それはこの神様がイザヤたちに向けて語られている時代もそう、彼らの後の時代もバビロン捕囚が待っていますし、民族崩壊の危機にも何度も晒されます。また、パウロの生きていた時代も、ローマ帝国の迫害により、多くの殉教者が出ますし、神様をこんな時に信じて何になる、と思うこともあるかもしれません。

 

しかし、そのような時代にあって、パウロは「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』」と手紙で書き送りました。

 

神様の財産、神様の恵み、神様の力は失われることはありません。なぜなら復活のイエス様があなたの内に住まわれ、ご自身を現されるからです。私たちには自分が頼る様々なものがあるかもしれません。しかし、神様の大いなる報いがあなたの内に現される時、どうして希望を失う、失望に終わることがあるでしょう。むしろ、やがてこられる方、遅れない方が今あなたをそのような中にあって導かれるのです。

 

イエス様は「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。…しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と語られました。

 

神様を求めることは弱い人がすること、それは恥じるべきことだ、とある人は言いますが、果たしてそうなのでしょうか。自分で何とか着飾って一生懸命に生きる、それはまあその人のある意味自由なのかもしれませんが、しかし、それによって肝心な命を損なって何になりましょう。神様は私たちをむしろご自身の愛で、御力で、恵みで着飾らせて下さり、養ってくださる、生かしてくださっているのです。本当の意味で生きたものとしてくださるのです。

 

もちろん、食べるもの、着るものを求めてはいけない、神様はそうしたものを下さらない、とは一言も言っていません。思い返せば、エデンの園で食べるもの全てを与え、また十分な助け手を与え、何より神様ご自身が共に住まわって下さっていました。また、彼らが罪を犯してエデンの園から追放される際、神様は彼らが土地が呪われ生きることができないことがないように、エデンの園の土を持ち出すことをゆるされました。また、彼らに罪の赦しと共に、裸で、木の葉で覆っただけの彼らを温めるべく、獣の毛皮で彼らを覆うのでした。

 

神様は彼らに無関心なのではない、霊肉共に神様は私たちを守って下さり、養って下さるのです。私たちは目先の事に囚われ思い悩みますが、神様はある時だけ助けてくださるとか、霊的な救い以外に関心がないとかそういうことはなく、神様は今日、あなたに命を得てほしい、今日あなたをその恵みで覆いたいとあなたを招かれているのです。神様の国があなたの内に広がる時、神様の義が、神様ご自身があなたの内にその恵みを現される時、私たちが思うよりも、天よりも地よりもはるかに高い神様のご計画が、愛がなるのです。今日、驚くべき、神様の思う十分な恵みが注がれるのです。

 

前の章で神様は「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」と仰られました。神様はまずご自身が私たちのところに恵みを注ぎに来られました。私たちが哀れみを受けるため、豊かな赦しと命を受けるため。今日、お会いできる今この時、この瞬間あなたを神様は求めています。

 

神様が↑で、「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は」と仰られたように、あなたを「今日」、遠い未来ではない、今ここから始まる命の内に、安息の内に招かれています。イエス様がその命をもって、私たちの罪の身代わりに十字架上で罰せられ、死なれた、そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる、この永遠のいのちがここから、今日始まるのです。

 

今日、私たちはこのイエス様から頂いた命をもう汚してはいけない。神様の安息、命があなたの内に、またあなたの周りにも豊かに現される事を祈り求めようではありませんか。今日、悪ではなく神様の義が、救いが、恵みが豊かに溢れ広がることを切に祈ろう。今日、イエス様の命にあって増し加わるこの恵みに生かされ喜び歩もう。これをいつまでも追い求める者であろう。