「10分も説教が聞けた」 三浦綾子
姉から聞いた話である。A子さんは、ある雑貨店の主婦だ。
キリストを信じているA子さんとしては、毎週日曜日、礼拝を守りたいと思っていた。いや思っている。しかし夫は大のキリスト教嫌いである。教会に行こうと思っても、なかなか許してもらえない。彼女は朝から、時計を見上げ見上げ、何とか教会に行きたいと、じりじりしている。
(ああ、もう奏楽が始まる頃だわ)
今日も礼拝は欠席か、と思いながら、彼女はしかし希望を捨てない。電話のベルが鳴る。急ぎの注文だ。夫は直ちに車で配達に出る。
彼女は夫の留守を幸いに家を飛び出す。教会にたどり着いた時、もうとうに礼拝は終わって、会堂はひっそりとしている。しかしここの牧師は、決して会堂の扉は閉めてしまわない。開けっ放しにして彼女を待っていてくれる。来ないかもしれない彼女にはそれだけでも、大きな安らぎなのだ。
こんなふうにして、彼女の信仰生活は続いていく。
それでも、うまくいくと最後の祝祷に間に合うことが幾度かあるという。誰にもまして、神のみことばに飢えている彼女にとって、祝祷だけでも大きな恵みだというのである。
その彼女がある日、珍しく牧師の説教が終わらぬうちに、かけつけることができた。そして礼拝が終わった時、彼女はしみじみと言った。
「今日は本当にうれしかったわ。だって10分も牧師さんのお説教が聞けたんだもの」
この話を姉から聞いて私は涙がこぼれた。体調を崩していて、いつも思うように礼拝を守れない私には、このA子さんの乾きがよくわかるのだ。と、共に、A子さんに対する牧師の、言いようもないあたたかさが身にしみるのである。
そしてマタイの福音書20 章のたとえ話を思ったことだった。
ここには、朝からぶどう園で働いた労働者にも、夕刻の5時頃から働いた人にも、等しく1デナリを支払った主人の話が書いてある。このたとえを語られたイエスさまの愛の、何と深く広いことであろう。
「風はいずこ」より
【聖書のことば】
あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう。」と、いつも言いますように。
(詩篇40篇16節)
聖書になじみのない人にはピンとこない内容かもしれません。
でも、私は思います。たった10分。されど10分。あなたが神様を慕い求める10分は、1分は恵にあふれたものになります。
あなたの瞬間瞬間は神様が支えてくださっているのです。あなたに楽しみを、喜びを与えてくださるのです。
クリスチャンでも、逆にこの10分の恵みを大事にする必要があります。儀式的に礼拝を考えるなら、その礼拝は恵には溢れないでしょう…
あなたの奉げる1分、10分…瞬間瞬間に神様の恵みはあふれるよう祈りたいですね(;^_^A