10分「も」の恵み:三浦綾子 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「10分も説教が聞けた」 三浦綾子  

 

姉から聞いた話である。A子さんは、ある雑貨店の主婦だ。

キリストを信じているA子さんとしては、毎週日曜日、礼拝を守りたいと思っていた。いや思っている。しかし夫は大のキリスト教嫌いである。教会に行こうと思っても、なかなか許してもらえない。彼女は朝から、時計を見上げ見上げ、何とか教会に行きたいと、じりじりしている。

(ああ、もう奏楽が始まる頃だわ)

 

今日も礼拝は欠席か、と思いながら、彼女はしかし希望を捨てない。電話のベルが鳴る。急ぎの注文だ。夫は直ちに車で配達に出る。

 

彼女は夫の留守を幸いに家を飛び出す。教会にたどり着いた時、もうとうに礼拝は終わって、会堂はひっそりとしている。しかしここの牧師は、決して会堂の扉は閉めてしまわない。開けっ放しにして彼女を待っていてくれる。来ないかもしれない彼女にはそれだけでも、大きな安らぎなのだ。

 

こんなふうにして、彼女の信仰生活は続いていく。

それでも、うまくいくと最後の祝祷に間に合うことが幾度かあるという。誰にもまして、神のみことばに飢えている彼女にとって、祝祷だけでも大きな恵みだというのである。

 

その彼女がある日、珍しく牧師の説教が終わらぬうちに、かけつけることができた。そして礼拝が終わった時、彼女はしみじみと言った。

「今日は本当にうれしかったわ。だって10分も牧師さんのお説教が聞けたんだもの」

 

この話を姉から聞いて私は涙がこぼれた。体調を崩していて、いつも思うように礼拝を守れない私には、このA子さんの乾きがよくわかるのだ。と、共に、A子さんに対する牧師の、言いようもないあたたかさが身にしみるのである。

 

そしてマタイの福音書20 章のたとえ話を思ったことだった。

ここには、朝からぶどう園で働いた労働者にも、夕刻の5時頃から働いた人にも、等しく1デナリを支払った主人の話が書いてある。このたとえを語られたイエスさまの愛の、何と深く広いことであろう。

 

「風はいずこ」より

 

【聖書のことば】

あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう。」と、いつも言いますように。

(詩篇40篇16節)

 

聖書になじみのない人にはピンとこない内容かもしれません。

でも、私は思います。たった10分。されど10分。あなたが神様を慕い求める10分は、1分は恵にあふれたものになります。

あなたの瞬間瞬間は神様が支えてくださっているのです。あなたに楽しみを、喜びを与えてくださるのです。

 

クリスチャンでも、逆にこの10分の恵みを大事にする必要があります。儀式的に礼拝を考えるなら、その礼拝は恵には溢れないでしょう…

あなたの奉げる1分、10分…瞬間瞬間に神様の恵みはあふれるよう祈りたいですね(;^_^A