―求めて良いんだ、呼び求めて良いんだ、今がその時― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。』」

イザヤ書55章6-13節

 

もし誰か憧れの人と会えると知ったら、全ての人ではないにしろ、何が何でも時間をつくって会いに行きます。そんな相手にあなたに会う時間がわずか、と知ったら自分のやるべきことを止めても行くのかな。ところでその相手が神様ならどうでしょう。あなたはその時間をどのように過ごしたいですか?神様は片手間であなたに会いに来られたのではなく、あなたにすべてのよきものを注ぎたい、とその愛をあなたに向けられた、あなたに会いに来られたのです。いや、あなたと共に歩むために。あなたが生きるために。このお会いできている、共に歩むことが赦されたこの命、あなたはどう生きるだろうか。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期から捕囚後について神様がイザヤを通して預言されたものの続きになります。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために神様が心血を注ぎ救われること、驚くべき良い知らせを、救い主イエス様の誕生について語られてきました。そのイエス様についてしもべの歌にて、神の御子であられながらそのありようを捨てられないとは考えずに、罪を犯さないという点を除き完全な人となって生まれ、徹底的に仕え、ついには罪がないイエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ、その傷も病も、一切を引き受け、打ち砕かれ、復活のイエス様ご自身が住まわれあなたを輝かせる、神様の御業が輝くことを見てきました。そこに全てのよきものを備えて待っているから、とイエス様ご自身があなたを招かれることを見ました。

 

神様はなおイザヤを通して「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」と語られます。「お会いできる間に」「近くにおられるうちに」、ときくと、神様は期間限定でしか会えないのか?助けてくれないのか?と思うかもしれませんが、これをどう受け取るかどうか、それはとても大事な事です。

 

そもそも神様は↑の前で「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」と仰られていました。「渇くことのない」水を神様は「ただで」くださるという事を約束されました。一時的なものではない、ということ。そしてあなたを元気づけたい、と。

 

そう、神様が、まずすべてのよきものを備えてくださっています。もうすでに。ただで、惜しみなく与える方があなたに用意してくださっているのです。もし努力や修行して、苦難に苦難を重ねてようやく得られるものでしたら、それは「金や代価を」払わない、「ただ」で受けられるものとは違いますね。ただ、神様は○○をしたらあげるよ、とか何か償いをしたら、仕方ないから赦してあげるよ、と仰られているわけではないのです。

 

その神様は、「お会いできる」、「近くにおられる」神様なのです。どこかのアイドルみたいに、会いに行く、というよりもむしろ会いに来てくださったのです。神様は、私たちを不法ものとして捨てるのではなく、むしろ私たちに渇くことのない水、いのちの穀物、何より神様ご自身を豊かにあらわされる、神様が憐れんでくださるのです。「主を求めよ」と仰られるくらいですから、求めれば与えてくださる神様なのです。神様は、その最善を与えたい、と今呼びかけられているのです。

 

ただ、この語られている時代は神様が遣わされた預言者イザヤさえ、自分の好きにさせない神の語ることなど、といって殺すマナセ王の治めるようなひどい時代です。神様がアッシリヤの脅威から救い出された、その神様をかえって捨てるような時代です。そんな彼らはやがてバビロン捕囚されていく事を、これまで預言されてきたわけですが、その彼らを神様はなんと憐れまれているのです、ここで。不法ものとして切り捨てられてもおかしくない、一体どこにそんなあわれみを受ける資格が彼らにあるのだろう、と思う。でもそんな本来あわれみを受けるに値しないものをさえ、神様はあわれんでくださり、生きてほしい、と願っておられるのです。

 

神様は、いつか会うよ、とかいつかいいことがあるといいね、と突き放すのではなく、今日彼らに命を得てほしい、今日あなたが回復されることを願い、今日あなたに語りかけるのです。遠い未来に帰っておいで、と神様は彼らに行っているのではない、今こそ神様は憐みを注ぎ、ただであなたに渇くことのない水を与え、元気を与える、神様の霊で、いのちで満たしたいのです。

 

パウロという人が1世紀にいたのですが、彼は神様を求めていながら神様が遣わされたイエス様を迫害する者、イエス様を信じる者を殺害することさえいとわないようなものでした。彼は復活のイエス様ご自身から、イエス様を迫害する者、と言い放たれるほどでした。しかし復活のイエス様は彼に会いに来てくださった。裁くため?いえ、彼を救いに、命に招くために来られたのです。教会の若手のホープの殺害に加担した彼をある意味で神様は裁く権利だってあった、でも神様は彼をそれでも救われたのです。そんな彼は後に自身の生涯を振り返りながら、その手紙に「『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです」と書き送りました。

 

パウロはあの日から変えられたのです。イエス様が「イエス様にあずかる者」としてくださった、その恵みの内にイエス様が会いに来てくださった、変えてくださったのです。赦してはい、終わり、ではなく、そこから神様の豊かな恵み、イエス様の命にあって与えられる恵みの内に私たちは招かれているのです。

 

その神様はなお「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」と語られます。

 

ある人は、神様が憐れんでくださるからってなんだ、というかもしれません。イエス様に与らせていただける?それが何?というかもしれません。しかし、それは私たちの常識の中ではなぜ、と思うことなのかもしれません。しかし神様は、御子イエス様の命を私たちの身代わりに、あなたの身代わりにできるほどにあなたを愛されている、その愛の深さをどうして私たちが推し量ることができるでしょう。私たちがここにしか道はない、と思うのとは別に、驚くべきところに、それこそ荒野に道を、砂漠に川を設けられる神様が道を備えてくださる。

 

何より神様はその御子イエス様の命をあなたの罪の身代わりにし、罰せられ、死なせてまでもあなたを取り戻された、その神様があなたの内に持っておられる、そのイエス様の命を持ってまで取り戻されたあなた、あなたの内に備えられる新しい命がどうしてどうしようもないものに神様はするはずがあるでしょう。神様はこの愛を持ってまであなたを取り戻し、あなたにその御心をイエス様の命をかけてまで取り戻されたご計画をあなたの内に成し遂げてくださるのです。

 

パウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」と手紙に書き送りました。神様は御子イエス様の命と共に私たちに与える、与らせてくださるその恵みは取るに足らないものではないことを語るのです。実体験として。

 

当時パウロは宗教家的にもそれなりに地位も名誉もあった彼も、イエス様によって新しくされたものはそんなものはちりあくたに過ぎなかったというのです。神様が与えてくださる後にくる栄光、喜び、平安、それはもう始まっている。神様が、イエス様の命を持ってまで取り戻された、あなたの帰りを待ち望まれた、そこに神様はどれだけの愛を込められたか、私たち忘れてはいけません。取るに足らない世のものを超えた、神様の栄光ある喜びをあなたの内に満ち溢れさせてくださるのです。

 

神様は、「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」と仰りますが、それはまさにイエス様にあって成就されました。イエス様はどれだけ裏切られ、罵られようが、何をされようが、最後の最後まで十字架をやめる、と仰らずに死にまで従われました。何があっても、この約束を果たすんだ、と死ぬとわかっていてもそれでもこれを実行されたのです。命をかける事さえ惜しまないイエス様がどうしてこの命がけの救いによってあなたに与えると約束された永遠のいのち、神様の子された喜びはいかほどでしょう。

 

今や私たちは茨やおどろという罪の呪いが取り除かれ、もみの木、ミルトスの木、常緑樹へと変えられる、いつもイエス様にあるいのち、喜びが、平安がみなぎるようになりました。私たちはこのイエス様にあって今日輝かせていただける、このイエス様の整えてくださったいのちにあって今日生きよう。もはや呪いではなく、神様の栄光に招かれ、歩ませていただいているのだから、このイエス様から離れず今日も歩みたいものです。