―ただで受け取ってください― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。」

イザヤ書55章1-5節

 

ただほど高いものはないと言いますが、それは「無料で物をもらったり、理由のない好意を受けたりすると、お礼の品物に金が必要となるし、相手の無理な要求にも応じなければならぬことになって、かえって高価なものにつく」からだそうです。なんか、そこまで求めてただで人ってあげるのかな?と。むしろ喜びをただ分かち合いたい、と言うだけの話なのかもしれない。神様は私たちを造られました。さあいくら払いなさい、ということなく私たちにあらゆるものを与えてくださった。それにこの世界の酸素や水さえ。何よりあなたのためなら、と御子イエス様の命さえ惜しむことなく与えてくださりました。ただで受けたのだから、私たちはむしろこの受けた恵みに生かされこのイエス様にあって与えられた最高の命を神様と共に歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期から捕囚後について神様がイザヤを通して預言されたものの続きになります。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために神様が心血を注ぎ救われること、驚くべき良い知らせを、救い主イエス様の誕生について語られてきました。そのイエス様についてしもべの歌にて、神の御子であられながらそのありようを捨てられないとは考えずに、罪を犯さないという点を除き完全な人となって生まれ、徹底的に仕え、ついには罪がないイエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ、その傷も病も、一切を引き受け、打ち砕かれ、私たちはもう一度回復させていただける、復活のイエス様ご自身が住まわれあなたを輝かせる、神様の御業が輝くことを見てきました。

 

その祝福を語られた神様、約束された神様が今、彼らを招きます。神様は「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」と語られます。

 

これを読むと、お水にお金って、わざわざ買わなくても飲める、と思うかもしれませんが、そもそも今のように水道などが整備されているわけでもなければ、中東地域だということを考えますと、安全な水を飲む、という点で簡単に水が飲めるわけではありません。そもそも、この地球にはおよそ14億㎦の水があると言われていますが、そのうちの約97%は海水で、淡水はわずか3%です。そしてこの淡水のうち私たちが生活に利用できる水は0.8%です。

 

ですから、水はとても貴重な資源なのです。ヨーロッパなどでは昔からレストランなどで何かを注文する時、水が欲しかったら「ミネラル・ウォーター」といって注文、お金を払って買わなければならないのです。しかも水の方がぶどう酒よりも高い。イスラエルやエジプト、中近東の砂漠地帯ではもっと水は貴重で、へたをすれば最大の産油国であるサウジアラビアでは石油よりも水の方が高いというほど、水は貴重なものなのです。それにもかかわらず、その水をただで飲めと仰るのです。いや、水だけじゃなく、穀物やぶどう酒、乳もです。

 

こうした背景を考えますと、神様の訴えは力強いものがありますね。ただでさえ貴重なものを、さらにバビロン捕囚でめちゃくちゃにされた結果、さらにそれが困難な状況にある、でも神様がこれをただで受けられるような状態に回復させてくださる、もっと言うなら神様ご自身が供給してくださると神様は訴えるわけです。そう、神様の訴えたい本質はまさにここにあるわけです。すべて与え、養われ、支えられるのは神様なのです。

 

覚えているでしょうか。イスラエルの民がエジプトの奴隷として400年近くとらえられて後、神様はイスラエルの民を、このバビロン捕囚からの解放のように、奇跡的な方法をもって救い出してくださりました。そして彼らはかつて彼らの先祖たちが住んでいた約束の地を目指して出発します。しかし、その道中は荒野。とても食べ物がまともにある地域ではありませんでした。ですから、イスラエルの民の不満もだんだん積もっていったのです。もちろん水も言うまでもありません。飲み水もなく民からの不満の声はひどいものがありました。

 

じゃあ神様はこの時、救ったんだから、何を文句を言うんだ、自分でそれらを得に行きなさい、とは言いませんでした。むしろ神様は毎日のようにマナという食べ物(安息日以外。安息日の分については安息日の前日に2日分神様は備えてくださっていた)を神様ご自身が送られ、与えられました。それは40年の旅の間尽きることも途絶えることもありませんでした。また、飲み水だってそうです。どこにも飲める場所がない、あってもとても飲めないような水があった程度、しかし神様は、水をわき出でさせ、時には岩を打たせ、時には言葉で命令させることによって出させるということもされた、神様は無から有をというよりも、神様ご自身のところに全てがあるのです。

 

ただで受けなさい、というのは、神様の蔵は有限だから、時々困った時に頼ってね、とかそういう話でもない、神様は惜しむことなく与えてくださる神様なのです。神様が何かで足りなくなる、と言うことはありません。なぜならすべてを備えられるのは、造られるのは、整えられるのは、すべては神様なのですから。神様は惜しむことなく恵みを注がれる、神様のところに全てがある、私たちにその確信はありますか?私たちは今日、神様にどれだけ頼っているでしょうか。

 

神様はさらに続けて「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」と語られます。

 

神様の願いは、私たちが生きることなんです。神様は、ただ食料があるからね、困ったらいつでもきていいよ、と仰るのではなく、いつも神様に出て来て、良いものを食べることを願っているのです。先程とり上げました、イスラエルの民の出エジプトの最後に、モーセは旅を振り返って、「それで主(神様)は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」と語りました。神様ご自身がマナを与え、神様の口から出る一つ一つのことば、約束、神様の語られたことがなることによって私たちを生かして下さる事を神様はモーセを通して40年間毎日体験させてくださっていたのです。

 

神様は「わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」と仰られるように、私たちに良いものを与え、そして身となり骨となり、私たちを力づけてくださる方です。表面的なものではない、あなたの全てを神様ご自身がたて上げてくださる、立ち上がらせてくださるのです。買いなさい、と言うことはそれを与えてくださる、と言う約束です。しかも神様がまず、惜しむことなくすべてを与えてくださる、それを受けるかどうかは私たちの問題です。

 

イエス様がその公生涯を歩んでいたある日、サマリヤという町の井戸で一人の女性と出会いました。正確にはイエス様はその町を通る必要がないところを通って、その女性を待っていました。サマリヤという場所はもともとイスラエルだったのですが、捕囚やアッシリヤの雑婚政策によってアイデンティティを失い、差別を受けていた町、しかもその女性は5人の夫がいたということもあり、心身ともに疲れ果てていました。

 

そんな女性とのやり取りの中でイエス様は「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。…この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と仰られました。

 

渇くことのない水を与えてくださるのは、イエス様、イエス様ご自身が私たちの心を渇くことがないよう、その魂を満たしてくださる、イエス様ご自身からその水が溢れ流れて私たちの、↑でいうなら脂肪となって元気づける、ここでは魂の底の底からイエス様がいつも満たしてくださるのです。

 

イエス様は十字架にかかる少し前に、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と、大声で叫ばれました。この時、イエス様を殺害しようとする人や、イエス様を利用しようとする人、様々いました。しかしイエス様は「だれでも」とその生ける泉、水を与えてくださる、と約束されたのです。

 

↑で、穀物とぶどう酒をただで受け取るように神様は招かれていますが、その本質はまさに神様ご自身なのです。神様ご自身が私たちに「良い物」を与え、元気づける、生きるために、神様は御子イエス様を人として生まれさせてくださり、どこか遠くではない、しもべとなり、私たちの最も近いものとなられたのです。どこか遠くではない、身近なところに住まわれ、私たちの間に住まわれて。驚くべきことをイエス様はなして下さったのです。ただ救って終わり、とか十字架に身代わりにかかって終わり、ではなく徹底的に愛を現され、癒され、また時に叱責しながらも悔い改め・いのちの道、神様と和解させていただく、その最高の道へと導かれたのです。

 

そしてただ一時的に癒すだけでとどまらず、私たちの最も取り除かれなければいけない問題、罪の呪いと、罪からの解放のため、私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、永遠のいのちを与えてくださるのです。

 

神様の願いは私たちが生きる事。もうあなたのために、御子イエス様の命にあって代価は支払い済みです。生きてほしいと願われた神様がイエス様の命と共にすべての必要を、あなたのために神様がどれだけの愛を支払われたのか、今一度立ち返り、覚え、このイエス様にあって生きるために、元気に歩むために与えられている一つ一つの恵みに感謝し、歩みたいものです。神様の恵み、泉、ぶどう酒、与える食べ物、恵みは尽きることがないのだから。