―砕いて、痛めることは御心だって、それを引き受けられたのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

イザヤ書53章10-12節

 

良くつらいことがあると、神様がいるなら何でこんな目に自分を合わせるんだ、と言う人がいます。なるほど、その気持ちは分からないこともありません。しかし考えてみますと、あなたを造られた神様が、あなたが離れていくのをどのような目で見ていたでしょう。どのような苦悩があったでしょう。しかしそれでも神様はあなたを見捨てず、あなたの痛みをになうことを選ばれたのです。あなたが打ち砕かれていく事を我慢できない神様は御子イエス様にこれを背負わせたのです。あなたがつらいと思う中にあってイエス様があなたを背負い歩んでくださっている、私たちにはイエス様がいる、この喜びを忘れず歩みたいものです。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期から捕囚後について神様がイザヤを通して預言されたものの続きになります。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために神様が心血を注ぎ救われること、驚くべき良い知らせを、救い主イエス様の誕生について語られてきました。そしてさらに、↑の前の章からこの章の終わりにかけてイエス様について、イエス様がしもべとして来られる、そのしもべの歌と言われるものが続いて示されます。

 

神様はここまで、しもべイエス様について「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが」とイザヤに示されてきました。

 

よく私たちは、神様は私たちの事なんか分からない、と考えるものですが、神様はそうではないことをずっとこの中で訴えるのです。イザヤが語る当時の相手はイスラエルの民、国内外的にも相当の苦境の中に立たされ悩んでいました。ただ、神様の愛はそんなものではないんだ、とこのしもべの歌から神様は訴えてこられました。神の御子であられながらも、そのありようを捨てられないとは考えずに、罪を犯さない点を除き完全に人となって生まれてこられた、その環境も厳しいものがありながらも、徹底的にその愛を惜しむことなく注がれる、そのイエス様が私たちの痛みも病も担ってくださる、その計画に向かっている、神様が今導いて下さっている、そう訴えてこられたのでした。

 

さらに神様はイザヤに「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」と、そのしもべイエス様について告げられます。

 

「彼を砕いて、痛めること」と仰られていますが、この彼、というのは私たちの事ではありません。神様は、私たちが何かに砕かれ、痛めつけられることを喜びとする、わけがありませんよね。このしもべの歌の中で「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とありましたが、まさにここなんです。神の御子イエス様が私たちのそむきの罪のために刺し通され、咎のために砕かれる(罪を犯さないイエス様がそむきの罪画ったり咎があること自体がおかしな話です)、それは神様の御心なんだ、と。

 

私たちは自分が苦しめられている時、神様は何もしてくれない、と思いがちなのですが、果たしてそうなのか。むしろ何の悪いことをしたわけでも、そむきの罪を犯したわけでも何でもないイエス様からしたら、身代わりにそれを背負うなんてちゃんちゃらおかしな話、と言われたらそれまでです。

 

じゃあイエス様はどのような思いでこれを引き受けられたのか。もちろん、このしもべの歌シリーズで見てきたように、苦しい、血の汗が流れるほど相当のストレスを負っていましたし、恐ろしいほどの傷を受けられ苦しみにあいました。できればこの杯を取り除いてほしい、と十字架にかかる直前には神様に祈るほど。しかし、その時イエス様はもだえ苦しみながら「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの『みこころ』のように、なさってください」と祈るのでした。できれば取り去ってほしい、でも神様の「みこころ」のようになさってください、とイエス様は委ねました。

 

苦悩の中にあって神様の御心を。かわいい御子イエス様(という言い方は失礼かもしれませんが)を見捨てるはずがない、ではなく、神様の御心だけが完全になることを願い求めたのです。あわよくば取り去ってくださるかもしれない、ではなく。なぜならこの後起こる十字架の苦悩をイエス様は一番ご存じ。それでも受け入れたのです。

 

それで、このしもべの歌や、イエス様の祈りの中にも出てきています「みこころ」と言う言葉ですが、ただ神様の特別な意思、自由好き勝手にするというものとはちょっと違うんです。よく神様は身勝手とかなんとか色々言われますが、とんでもない、そのお心の本質はそんなところにはないのです。これは「望まれた、志とした、欲した、喜んだ」と言う意味があります。

 

神様にとっては私たちが傷つき砕かれることは喜びではないんです。むしろ神様の思いは、あなたが傷つき砕かれる、倒れるのではなく、むしろそのあなたの身代わりとなり御子イエス様が死ぬこと、罰せられることを神様はよしとされたのです。それによってあなたが生きることを何より願われたのです。そのために、最も大切なものを子に与えようとする愛です。ここに親の、父なる神様のあなたへの強い意思が示されたのです。罪人である私たちにはとても受けるに値しないはずの、しかしあなたを造られた神様はあなたを見捨てることができない。

 

イエス様は「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と仰られました。わが子のためなら、神様は最も大切なものを与えるというのです。その我が子とは誰ですか。「聖霊様」のくだりを見る限り明らかに私たちに向けられた言葉です。

 

それゆえに、最も大切な御子イエス様をあなたの身代わりとして神様は罰することを選ばれたのです。それによってあなたが生きるなら、そしてさらに多くの人が救われるなら、その彼らを通してなお神様の栄光が現わされていくなら、と。誰か一人のためではない、誰か特別にいいことをした人のためでもない、むしろイエス様を裏切り、十字架にかけた者たちのためにさえ、この十字架からイエス様は私たちの罪の赦しを懇願されたのです。

 

イエス様はこの十字架上で最も苦しい体験をしなければなりませんでした。それはもちろん十字架の痛み、苦しみもあります。しかしそれ以上に、永遠の昔から一瞬たりともは慣れたことのない神様から断絶されるという最も苦しい杯を飲むことです。十字架で罰せられる、私たちの身代わりに罰せられるというのはそれほどの事なのです。本来は神様との最高の関係であるはずのところから断絶されてしまう、それ以上の苦しみはありません。いつかは終わる痛みや苦しみの話ではない、永遠の神様との断絶、それほどに命のないものはないのです。だってそうでしょう?この世界は神様なしに存在しえないのです。私たちは神様が今も保持し、守ってくださっているからこの世界はあるのです。しかしそれでもイエス様はこれを引き受けてくださったのです。これによってあなたが生きること、永遠の命、永遠の断絶ではなく、和解、新しい命、そこから始まる大いなる神様の恵みを得てほしい、それが神様の望みであり、御心、喜びだったのです。

 

パウロという人はその手紙に「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の前に着座されました」と書きました。イエス様はその苦しみは分かっている、でもその喜びのゆえに、イエス様ははずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのです。なぜ神の御子たる私が?とは全く考えることはなかったのです。むしろ死によってあなたが生きるなら、と決断されたのです。イエス様がこれを必ず成し遂げる、と今イザヤを通して神様は訴えているのです。

 

↑の最後に「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」とあります。

 

まさにこのイエス様の命にあって私たちもまた同じ復活の恵みに与らせていただける。ただ死んで復活してはい、終わり、ではなく、ここから和解、新しい恵みの関係が始まるのです。イエス様は十字架上で「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」と訴えました。そしてそれは今も、神様の右の座で大祭司として、私たちのために執り成していてくださるのです。私たちはこのイエス様から目を離さず、歩みたいものです。明日を喜びで満たすためにイエス様の命を惜しまなかった神様が今日あなたと共に歩んでくださるから。