―なぜそこまで― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」

イザヤ書53章1-3節

 

最近、子供の出産のために両親が様々なプランを考える、準備するという話を聴きます。ある意味子どもの誕生というのは親にとっては本当に喜びで、楽しみで、最高の準備をします。私も不完全ながら…しかし、神様は御子イエス様の誕生について驚くべき方法をもって、本来見向きもされないような人たちにまで喜びを届けられたのでした。神様の愛が届かないところはない、私たちはどんな場面にあっても神様を求めよう。神様があなたに出会いに来てくださったのだから。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期~捕囚後について神様がイザヤを通して預言された続きです。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために神様が心血を注ぎ救われること、驚くべき良い知らせを、救い主イエス様の誕生について語られてきましたが、↑の前の章からこの章の終わりにかけてイエス様について、イエス様がしもべとして来られる、そのしもべの歌と言われるものが続いていきます。今語られているイスラエルの民からしたらそんな未来の話、と思うところかもしれませんが、その救い主を通した救いを計画されている神様が今御手を伸ばされている、そのことを訴えているのです。その計画はどのようなものなのか、今語られていきます。

 

↑ではまず、そのしもべとなられたイエス様の誕生について語られていきますが、まずイザヤはイエス様が徹底的に遜り、低くされ、その後高く上げられる、そのために受けられる受難について(昨日分かち合った箇所)神様から聞いた時、「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか」と告白します。イザヤはこれを信じ、預言書に書き残したわけですが、一方でこれを信じる人がどれだけいるだろうか、という思いがある、それを今訴えているのです。

 

ある意味では神の御子イエス様が救い主として来られる、その救いへと導こうとされている神様が今自分たちを導こうとされている事さえおどろくべきことなのに、その神の御子、救い主イエス様が、神の御子であられるのにそこまで遜られる、とても信じられない、という人も出てきたようです。らの神様像からはあり得ない、と。まあイエス様の誕生時も、当時の宗教家たちは、自分たちの思う救い主像とかけ離れていて信じなかったのですが。この預言書を散々読み、知っているはずなのに。

 

「誰が信じるだろうか」、この言葉、私たちはどう受け止めるでしょう。私は大丈夫大丈夫、と考える人もいるでしょう。ただ、当時の話について少し触れたように、ここが落とし穴になりやすいんです。私は神様を信じているから何があっても大丈夫、という人もいます。うん、それは立派な考えです。しかし、神様を信じているから、神様なしでも大丈夫というのは違うんです。むしろ私たちは神様から離れて生きていた、その神様の救い、それこそ伸ばされた御手によって救われたわけですから、むしろ神様から離れて私たちはどうして生きることができるでしょう。

 

何より、救われる前も救われた後も陥る問題として、自分の神様像を当時のイスラエルの民や、イエス様が人としてお生まれになられた時の時代の宗教家たちが持っていて、それを神様に押し付ける、その通りじゃなければ神様などいない、信じられない、自分の思う神様がそんなことをされるはずがない、と神様が今なされている事、語られていることが厳しいと信じなくなる傾向があります。もしくはそれを信じると自分の所属しているグループ的に、なんてこともたまに聞きます。でも大事なのはその御手を伸ばされたイエス様に留まる事ではないでしょうか。

 

神様は、それでも語られているのです。その御手を伸ばされているのです。誰が信じようか、という中にあっても、御子イエス様が生まれてこられ、その公生涯を歩む中で彼らはどうせ信じないんだし、と見捨てることなく、多くのしるしを行われていたのです。それこそ、イエス様の誕生の知らせを一番最初に聞いたのが、元犯罪者を含む当時さげすまれていた羊飼いたちであったこと、またイエス様が公生涯を歩まれる中で、社会的に差別されていた人、罪人など多くの人にその御手を伸ばされていました。「主の御腕は、だれに現れたのか」と言いますが、驚くべき人のところにまで伸ばされていたのです。最も貧しく蔑まれていた羊飼いにとっては喜びの瞬間であり、イエス様が生まれたその姿を見た後、またどうせ現実に帰るんだ、と戻るのではなく、喜び賛美して帰っていった、そのイエス様がへりくだり、まさかというところにまで御手を伸ばされ、彼らは平安、喜びを得たのです。

 

ただ一方でイエス様が、ご自分がどのような死に方で死ぬかを示された時、まさにその多くのことを語られ、またしるしを見せていただいた、奇跡を体験した群衆たちは、「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか」とイエス様に尋ねます。これは前回のしもべの歌で触れられた預言ですね。その彼らにイエス様は「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」お答えになり、立ち去って、彼らから身を隠されるということがありました。

 

その時の出来事について12弟子の一人だったヨハネは「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか』と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった」と福音書に書き記しました。それでも、彼らが光の内を歩むことができるよう、彼らが信じていないことを分かっていてもなお語り続けるのです。罪の内にではなく、神様の恵み、救いに与り、いのちを得てほしい、と。

 

そのイエス様について神様はイザヤに「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」示されます。

 

分かりづらいかもしれませんが、ようするにイエス様は神様の目には、「主の前に」生き抜く存在として、若枝のように芽生えるのですが、人の目には「砂漠の地から出る根」のように見えたのでした。それこそ決して目立つことのない姿として育たれ。

 

神様は、救いのまさにしるしとしてイエス様が彼らの内に根付き、その命の実を彼らに結ばせる、その存在として喜んでいました。イエス様がバプテスマのヨハネという「人」から洗礼を受けるという、神の御子としては考えられないほど遜られた時、神様は「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と仰られました。

 

そもそも、バプテスマのヨハネという人は「罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝え」ていたのですが、罪も犯さないイエス様がどうしてそのバプテスマを受けなければいけないのか。しかしイエス様は「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」と仰られ、しり込みするバプテスマのヨハネから洗礼を受けるのでした。私たちがそうして悔い改め神様に立ち返り命を得るためなら、と驚くべきことをされたのです。イエス様が新芽となられ、私たちが命を得ることを神様は何より喜ばれたのです。

 

そんなイエス様はどこか都会の裕福な家庭の中何一つ苦労されずに育ったのかというとそうではありませんでした。神様に愛されている、新芽として喜ばれている存在なのに。イエス様は貧しい大工の家に生まれ育ちました。そしてガリラヤにある貧しい小さな村である「ナザレ」に戻って育っていきます。当時のユダヤ人の社会では「ガリラヤ」の出身というだけでも軽蔑の眼差しでした。そこは「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言われるほどの場所だった、その中でイエス様は育たれたのです。全く周りからしたら田舎者育ちとみられてしまっていたのです。

 

なんでそんな生育環境で育たなければいけなかったのか?と思いたくなるかもしれませんが、むしろ神様の愛はそんなところにまで、というところにまで伸ばされるのです。愛する存在というならもっと華やかなところで成長できるようにすることもできる、しかし神様はむしろ暗闇、希望のない中に遣わされ、その光を放ち、希望、救いとなられたのです。イエス様は隠れているような、砂漠の中にいるような中にあっても癒し、救いをもたらされるのです。生育環境、様々な苦しみの中にイエス様は世の光として来られ、灯を灯されるのです。「なんの良いものが出るだろうか」という中にあってイエス様が命を、恵みを、救いを私たちにもたらしてくださるのです。

 

イエス様のお姿について「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」と語られていますが、むしろ目に見えるところではなく、内なるところからその希望をあふれさせてくださったのです。私たちは何か自分に良いものが出たら、信じる、そうでなければ信じないとなりやすいですが、私たちが慕い求める以上のもの、輝き、恵みがあなたの内に現される、そのためにイエス様はあなたに出会いに来られるのです。

 

結局民の中で、イエス様を受け入れる人と受け入れなかった人にわかれたのですが、イザヤに神様が示された「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」ということを、私たちがむしろしてはいけない、イエス様をさげすみ、のけ者にしている場合ではない。あなたのことを一番知っておられるイエス様があなたの救いとなられるのです。罪人として本来神様から蔑まれ、のけ者にされてもおかしくない中にあって、イエス様があなたのその蔑み、のけ者として捨てられる、それら一切を引き受けられ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし、3日目によみがえられたことによって、尊ばれるどころか捨てられる、罪人として死ぬしかない私たちを、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れられる、本当に喜ばれる、神様の愛される存在とされるのです。

 

私たちの出自は色々あるかもしれません。しかし、私たちは今、イエス様にあって生まれ変わらせていただけるのです、あなたがイエス様を救い主として受け入れるなら。もはや神様の家族として、天にその名が刻まれ、今日覚えられているのです。このイエス様を身代わりされてでも救われた神様の愛が、その御腕が今日もあなたに伸ばされ、導かれるのです。人の目にはなんの良いものが出るか、と思われるような中にあってイエス様が今日あなたに現される愛、その恵みに生かされ歩もうではありませんか。