山本忠一さん:命がけの愛 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

昭和初期のころの話ですが、山本忠一さんという人がいました。

 

和歌山県南部(みなべ)という町に労祷学園(ろうとうがくえん)がありますが、枡崎外彦さんという牧師がこの学園を指導されていた時、彼、山本忠一さんはこの学校にやって来ました。やって来たというよりも、拾われて来たと言った方がいいかと思います。しかし、彼は知恵遅れの少年だったので、彼がこの学園に加えられた時、誰かが門柱にペンキで「アホ学校」と落書きしたことから、この学園は「アホ学園」と呼ばれるようになり、南部名物とまで言われるようになりました。彼は幼い頃、脳膜炎をわずらった孤児でした。大食いと寝小便のゆえに親族も愛想をつかし、捨てられ乞食をしている所を、枡崎牧師が世話をすることにして、連れ帰ってきたのです。

 

ある時、升崎牧師の下で、7人の若者が学んでいましたが、彼らが牧師につめよりました。 「忠やんが、労祷学園に出入りしないようにして下さい。」

「もし忠やんが学園に加わるのであれば、自分たちが出て行きます。」

升崎牧師は悩み苦しみましたが、『もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。』(マタイの福音書 18章12節)という聖書箇所を語ります。

 

才能のある7人と1人の知恵遅れの少年どちらを選ぶべきか?イエス様は、1人の世話を必要としている人を見捨てることはない。7人の青年達は去っていきました。ところが、それからしばらくして、忠やんも外出したまま帰ってこなくなりました。八方手を尽くしましたが、消息はつかめませんでした。

 

忠やんがいなくなってから数年たった昭和14年のある日、1人の紳士が升崎牧師を訪ねて来ました。

「あなたは何年か前に山本忠一君をお世話して下さった牧師さんですか?」

「おお、あなたは忠やんの消息をごぞんじですか?元気にしてますか?」

「実はその忠一君は、立派な働きをして死にました。」

「これが彼の形見です。」

紳士はそう言って、船の舵輪を差し出しました。

 

紳士は話し始めました。

「ある日、海辺に1人で立っている忠やんを見つけ、あれこれ訪ねたが、何も判らない、行くとこもないようなので、私の船で働くか?と聞くと、うん。と言うので、船に乗せ、働いてもらっていました。

 

ある日、荷物を満載して紀州尾鷲港を出航しましたが、出航後間もなく海がしけ、新宮沖にさしかかるころには、思う方向に船を進めることも出来なくなり、ついに暗礁に船底をぶつけてしまいました。船底に穴が開き、水が激しく浸水してきて、いくら排水しても間に合わなくなり、一同観念した時、船底から、『親方!親方!船を!船を!』と手を振り叫んでいる者がいます。 忠やんでした。

 

忠やんは、自分の足を穴に突っ込み浸水を止めていたのです。船員一同必死に排水と操船をし、陸に近づけ、助かったのです。忠ちゃん助かったよ!と彼のもとに行った時には、忠ちゃんの右太ももはもぎ取られ、出血多量ですでに息を引き取っていました。この舵輪はその時の幸十丸のものです。」

 

升崎牧師は労祷学園で、オランダ堤防の決壊を救ったハンス少年の事を話した事がありました。その話を聞いた時、忠やんは、「俺はハンスだ!ハンスだ!」と叫んでいました。人から“アホ忠”、“アホ忠”と呼ばれ、“アホ忠”が自分の名前と思っていた山本忠一君でした。

 

彼は升崎牧師の愛と教えを受け、自分の身を持って、愛を実践したのです。

 

「人がその友のために命を捨てるという、これより大きな愛は誰も持っていません。」(ヨハネによる福音書15:13)

 

これは忠一君が覚えた、たった一つの聖書の言葉です。山本君は普段自分をアホ忠と呼んでバカにし、なぐったり蹴ったりした船員たちの命を救うために、自分の命を犠牲にしました。

 

これは私たち人類を救うために十字架の上でご自身の命を犠牲にしてくださったイエス様の愛です。このイエス様の愛を受けていたので山本君は自分をばかにしていじめていた人たちをも許し、愛して、救うことができたのです。

 

イエス様は、あなたの病を負い、あなたの痛みをになってくださいました。あなたのそむきの罪のために刺し通され、あなたの咎のために砕かれました。しかし、彼への懲らしめがあなたに平安をもたらし、彼の打ち傷のゆえに、あなたはいやされました。

 

ですから、もしあなたが病を負っているなら、どうか、この十字架につけられたイエス・キリストを見上げてください。あなたが人にも言えないような苦しみを抱えているなら、どうか、十字架のキリストを見てください。イエス様はあなたの病やあなたの苦しみの一切を代わりに受けて死んでくださったのですから。