―生まれる前から、白髪になっても― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。このことを思い出し、しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、【わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる】と言う。わたしは、東から猛禽を、遠い地から、わたしのはかりごとを行なう者を呼ぶ。わたしが語ると、すぐそれを行ない、わたしが計ると、すぐそれをする。わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。』」

イザヤ書46章1-13節

 

ある介護施設で働いていた時に、利用者さんが「迷惑をかけるね」とよく私に声をかけて下さったのですが、とんでもない、と話しました。それは、私たちが子供のころは両親に育てられつつ、地域の見守りの中育てられてきた、今度は私たちが恩返しする番なんです、遠慮しないでくださいね、と伝えたところとても喜ばれました。ところで、一方でヤングケアラーの問題もありますし、これがすべて、とは言い切れないのも現状。私たちは自分の人生も含めてすべてを背負うなんて無理、でもあなたを造られ、あなたの神様となられた神様は、あなたが生まれる前から、そして今に至り、死して後、天の御国に至るまであなたを背負われ、導かれます。私たちが孤独と思う時であってもあなたを背負って。あなたのためなら御子イエス様の命さえ惜しまなかった神様に最後まで離れず、共に歩ませていただこうではありませんか・

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期~捕囚後について神様がイザヤを通して預言された続きになりますが、ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために、メド・ペルシャの王クロスをたて、イスラエルを、そして彼らに捕らえられていた諸国をも救い出すことを約束されました。↑はその続きになります。

 

神様はなおイザヤを通して「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」語られます。

 

ベルだの、ネボだのなにそれ?と思う方もいるかもしれません。まず、この「ベル」というのは、バビロンの偶像の神々の名前にあたります。バビロンの主神は「マルドゥーク」と呼ばれる神(偶像、偽神)ですが、その別名が「ベル」というそうです。当時バビロンには50もの偶像の神々がありましたが、その主神がマルドゥーク、その別名が「ベル」でした。さらに、「ネボ」とはベルの息子のことです。ちなみに、バビロン捕囚の時の王、ネブカデネザルの中にも、このネボが使われ、自分は神の子なんだ、とある意味で宣言しているわけです。

 

ただ、このネブカデネザルも捕囚中に宦官としてイスラエル人を登用し、最後はその神様の前にひれ伏します。が、またも高慢になった、自らを神とした時、彼は討たれ、獣のようになり、もう王としての尊厳は失われます。自分こそすべての支配者だと思い高ぶっていたその心はへし折られ、結局ここから少しずつ衰退に向かっていきます。

 

話を戻して、結局ベルだの、ネボだのはかがみ、ひざまずくようになる、とありますが、偶像は動けないので実際はその神として拝んでいた人たちが、運ぶこととなったのです。神が運ばれるとは情けない話と言えば話ですよね。荷物と一緒に。

 

この預言を神様がイザヤを通して語っておられるのは、まだアッシリヤが支配している時ですが、そのときにもバビロン帝国はありました。このイザヤ書の39章に出てきました、メロダク・バアルダンのころです。彼はアッシリヤに反逆して、その戦いに敗れましたが、その際まさにここで語られていることを行ないました。当時の戦争は、勝利した国が、相手の国の偶像をこなごなに砕き、自分たちの勝利を宣言したそうです。そのように、自分の神々が砕かれるのを恐れて、避難するときに自分たちの荷物の中に混ぜて行ったそうです。また、メド・ペルシャの王クロスによってバビロンが滅ぼされた時にも、こうした偶像は獣と家畜に乗せられ荷物のように運ばれました。それは彼らにとって重荷となったのです。ベルだのネボだの、主神云々言っていましたが、結局いざという時に何の役にも立たない上に、かえってお荷物になり、重荷となったのでした。

 

そもそも運ばれる神ってなんだ?と思いますね。自分で自分を助けられず、自分を拝んでいた者たちさえ助けない。語ることも預言して救うことさえできない。しかし神様は違うのです。↑で「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」語られていますが、ベルやネボとは違う、神様はそもそもの話が、ここ数章に渡り見てきましたが、私たちを母の胎内にいる時から形づくられ、その愛情を注ぎ、生まれるまでの間しっかり守ってくださった、そして生まれてからも今日まで、両親や兄弟、友を通して、またさまざまな事を通して守られ、運んでくださりましたね。だから今日私たちがあるのです。

 

年をとっても、と言いますが、今これを語られているイザヤの時代のイスラエルの民は腐敗し、神様から離れ好き勝手に歩み、ついにはマナセ王はイザヤの預言が気に食わず、殺害します。そんな王のいる中で、神様はそれでも見捨てるのではなく、「年をとっても」同じようにする、しらがになっても背負われるというのです。これまでと同じように。

 

そう、これまでと同じように、なのです。それが神様の御思いなのです。運ばれるのではない、かえってあなたを背負い、運ばれる、一緒に歩んでくださるのです。あなたを恥とせず。見捨てることもできる中でそれをされなかったのです。

 

そのバビロン捕囚期に活動していたエレミヤという預言者を通して神様は遠くから、エレミヤに現れ「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」語られました。まさに、神様はそのような捕囚期にさえ、それでも誠実を尽くし続けると約束され、まさに捕囚中であっても見捨てず預言者や宦官をたてることで守られ続け、ついにはクロス王を通して救い出されます。奴隷のように神様は彼らを使役して、そのあと解放するのではなく、むしろ神様ご自身が捕囚地の中心にあって、その御目を、御手を伸ばされ守られていたのです。

 

イエス様「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」仰られましたね。イエス様にとっても、今群衆たちはついてきていますが、やがて彼らが十字架にかけることを知っていました。12弟子のペテロ、イスカリオテのユダ、そして他の弟子たちもイエス様を見捨てて逃げていく事も知っていました。それでもイエス様はご自身のもとに人々を招かれ、その愛を惜しむことなく注がれ続けたのです。本当の安らぎを与えるために。

 

でもイエス様のくびきを負うの?と思われるかもしれませんが、くびきというのは、一人で負うものではなく、家畜なら2頭で負います。しかも強い、ベテランと、弱い慣れないものでペアになります。その強いものが弱い方を助け、どうしたらいいのか教えるそうです。そう、私たちのくびきを、重荷をイエス様が一緒に追ってくださり、共に進んでくださる、イエス様がその中を歩まれ、どう歩んだらいいのかを示されるのです。

 

何よりイエス様は私たちがおっている思い煩い、痛み、病、何より罪の呪い、一切を引き受け、私たちの身代わりに十字架にかかられ、罰せられ、死なれたのです。ありえない。しかしそのありえないことをイエス様は実行され、死にまで従われたのです。途中でこんな裏切り者のくびきをどうして追わなければいけないんだ、と捨てるのではなく、むしろ私たちを捨てるのではなく、ご自身を私たちの罪の贖いとされたのです。

 

↑でイザヤを通して神様「わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか」仰られていますが、このイエス様の愛を何に比べる事ができるでしょう。このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るなら、私たちの罪は赦され、神様の子とされるのです。イエス様の復活によって、全ては新しくされるのです。このイエス様の命がけの愛、救いに添えて下さる神様の御心、ご計画が何かに劣る事などあるでしょうか。私たちの諸事情全てをイエス様は引き受けられた。全てに勝利されたのです。

 

私たちは↑の神様のことば、「このことを思い出し、しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う」をしっかり握りしめよう。背いていた私たちを忘れず、覚え、昔も今もこれからもあなたを導かれる事、ある一時ではなくイエス様にあって完全にあなたの命は神様の御手の中にあり、全て導かれる、神様のこの命がけの愛が成就する事、この事を覚え続けようではありませんか。

 

私たちの周りには確かに様々な困難、問題があるかもしれませんが、神様は、神様の勝利を遠くない、遅れる事なく近づけて下さります。だからこの神様の完全なご計画がなる事を日々祈ろう、このイエス様にあって与えられる光栄、これを待ち望もう。神様はあなたを背負われ今日も明日も、これからも神様の栄光の内に、いのちの内に招き導かれるから。