その昔、ぼくの娘(私のではなく、この手記を書いたお父さんの)はアメリカの小学校に4年間通っていた。ぼくの留学中のことであった。
「アメリカで英語を話すのはあたりまえのこと。日本語は貴重な財産なのだから、家では日本語で通してください。」
見識ある最初の担任のおかげで、娘は日本語がペラペラだったので、帰国後の勉強のことは心配していなかった。ところが現実は厳しかった。読み書きができないので、入れてもらえる学校がなかったのだ。途方に暮れ学校を捜すうちに、家のすぐ近くに帰国子女を受け入れてくれる学校を見つけた。ある国立大学の付属小学校の中に、研究機関としての学級があったのだ。試験の日、50人をこえる生徒が集まった。
1時間目の試験のあと、娘はうつむいて出てきた。「できなかったな」と思った。
2時間目の試験のあと、娘は泣き出しそうな顔をして出てきた。「これはダメだな」と思った。
最後の試験のあと、娘は笑い顔で出てきたので、「落ちたな」と思った。
午後一時、大教室に親子 150人ばかりが不安と期待で集まった。先生が一枚の紙切れを持って現れ、5人の名前を発表した。
その中に、「5年生、岸ひとみさん」があった。
同姓同名かと思ったが、正真正銘のわが娘だった。信じられなかった。
「どこかの学校へ行って、なんとかついていける力があるお子さんは、そちらへ行っていただきます。この学校では、どこの学校に行くこともできない、箸にも棒にもかからないお子さんだけを選んでいます。できないお子さんから順に5人選ばせていただきました。あしからず。」
ぼくの目から汗が噴き出した。こうして娘は10倍の難関を突破した。
「できない子から順番に」
これをキリストの恵み、と聖書は教えている。できる子もかわいい。できない子はほうっておけない。もっとかわいい。キリストの愛は、親の愛を完成させた愛だ。そのキリストの愛がもっともよく表されたのが十字架である。罪のない方が、罪深い私たちの身代わりを申し出て、死ぬ。そして、復活へと続く。
ここに罪と死とさばきからの救いがある。永遠のいのちの救いがある。キリストを救い主と心に信じて受け取るだけで救われるのだ。これが福音(よろこびの救いのおとずれ)なのだ。
ー岸義紘先生ー