―偽りと本物― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、【ああ、暖まった。熱くなった】と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って【私を救ってください。あなたは私の神だから】と言う。彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、【私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか】とさえ言わない。灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、【私の右の手には偽りがないのだろうか】とさえ言わない。…』」

イザヤ書44章9-20節

 

偽ブランド、詐欺、これほど見掛け倒しなものはありません。それは私たちに何の利益ももたらさないですし、何よりそれが詐欺だと知った時の落胆はいかばかりか。力どころか、時間も、エネルギーも、ありとあらゆるものが奪われていく。まあ詐欺系ではなくとも、拠り所としていたものに裏切られた時ほどつらいものはありませんね。ただ、本物は違います。ある意味でほんものは生きています。そう、神様。神様は私たちに本物の命を下さり、しかも生きておられ、私たちをどんな時も導いて下さり、支えてくださる。私たちは偽物から目を離し、本物の神様の恵みを求め、歩みたいものです。神様はいつも最善を備えてくださっているのですから、この方から目を離さず歩もうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期~捕囚後について神様がイザヤを通して預言されているところの続きになりますが、神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、また救われる約束をこれまでされてきたわけですが、その根拠として、↑の前では「あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルン』」仰られ、それゆえ回復のため「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」仰られていました。一方で生きていない偽物の神には何もできない、それを見たこともないじゃないか、と語られていました。

 

↑ではさらにその問題の偽神・偶像について、神様はイザヤを通して「偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を得たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る」語られます。

 

この話を聞くと、自分は偶像は作らない、という人がまあ今の時代でもよっぽどの人ではない限り造ることはないかとは思いますが、拝みはしますよね。仏像とか。像という形ではなくとも、その背後にあるものを拝む。先祖崇拝などは日本では一般的になっていますね。パワースポットなどもある意味ではそうでしょうか。そもそも偶像というのは、これなしには自分は生きていけない、というもの、ないし神様よりも上にくる価値観やもの、それは偶像なのです。もっといいますと、アイドルという言葉がありますが、これもIdol=偶像なんです。言われてみたら、アイドルに陶酔しきって自分を満足させようと求める、ある意味で自分の時間やお金を支配させる。

 

日本には八百万の神的な考え方がありますが、それはそれを信仰の対象として、それをもとにある意味で像のようなものを作ることもあります。結局像があろうがなかろうが、自分たちを満たすなにかを、それこそ先程のアイドルの話ではありませんが、偶像としてしまうわけです。そもそもの話それには大きな問題がありまして、↑で神様が語られていますように、偶像は目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口があっても語れず、鼻があってもかげず、手があってもさわれず、足があっても歩くことができません。

 

この「偶像」という言葉は「切り刻んだもの」という意味なのですが、先ほどのアイドル論と同じで、人が勝手にイメージしたものに具体的な形に切り刻んだものにすぎないのです。像であろうと形があろうとなかろうと。しかし自分の思う通りに切り刻んで作ったもの、特に自分が祭り上げたものが私たちに何をもたらすことができるでしょう。

 

ただ、いずれにしてもこの偶像問題について言えるのは、そんな偽物に本物を求めても仕方がない、ということです。そもそもの話、その拝む対象、先祖にしても、八百万の神にしても、諸外国のたとえばナイル川とかそういうものにしても、それは神ではない、自然発生したものでもない、神様が造られたものです。どうして被造物が、造り主に勝ることができるでしょう。自分の都合のために祭り上げた偽神・偶像が、自分の理想像に合わせて刻んだ、祭り上げたものが、どうしてあなたを生かせましょう。むしろあなたを本当の命あるものに、理想的な、本来あるべき姿に作り上げることができるのは、あなたを造られた神様の他にどこにいるでしょう。

 

彼らは見ることも知ることもできない、だってそれは被造物、自分の都合で作り上げたものを神とするならどうしてあなたのことを見て、あなたを死って何かができるでしょう。しかし神様はあなたを造られた、母の胎内にいる時からあなたを造られ、あなたを高価で尊い、愛する存在として造られた神様だからこそ、あなたを見、知り、そして行動に移せるのではないでしょうか。むしろ神様はあなたを役に立つか立たないかで判断し、行動されるのではなく、むしろあなたを愛するがゆえに、まず愛されることを、神の御子イエス様が人となって生まれ、その間に住まわれ、仕えることを、命をもってあなたを救い出すことを選ばれたのです。仇なすものを友と呼び、その友のために命を捨てる、それ以上の愛はどこにもありませんよね。私たちはこのイエス様の愛を侮らず、むしろこの愛、イエス様の御前にへりくだる者でありたいですね。

 

ある人はそれでもじゃあ神は一体こんな時にどこにいるのか、と思うかもしれません。その疑問に対して、バビロン捕囚を経験したある詩篇の作者は↑の預言と似ていますが、「…なぜ、国々は言うのか。『彼らの神は、いったいどこにいるのか』と。私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。…主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も…あなたがたが主によって祝福されるように。主は、天と地を造られた方である」詩にその思いを残しました。

 

バビロン捕囚にあう前はイスラエルの民は散々偶像に頼りきり、その頼っていた偶像は結局何もしなかった。助けもしなかった。しかし、彼らはバビロン捕囚中にあっても確かに現に預言者を捕囚のただなかに神様が立て語られ、励まし続けて下さったこと、またイスラエル人がバビロンの宦官の中にたてられ、命がけの盾となって民族滅亡の危機から守ってくださったことを見た、まさに神様こそ生きておられる、本物の神様、本当に祝福、いのちで満たしてくださるのは神様だった、とその実体験を歌に残すのでした。確かに、この天地万物を造られた神様が今、わたしを形作り、恵みで満ち溢れさせてくださっている、その御心は計り知れない、と。

 

私たちは忘れてはいけません。↑で「鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する…」と神様はイザヤを通して預言されていますが、そもそも私たちが神様を自分の好き勝手な場所に納めて、さあ助けてください、というのはおかしいですし、私たちの常識の枠に納められる神様ではありません。

 

むしろ神様は安置されて動けない偽物とは違い、むしろ私たちのためにご自身の御心、ご計画を、美しい最大のご計画を、あなたをあるべき姿、イエス様の似姿にもう一度回復させよう、神様が人を造られた時にご自身に似せて作られたように、あなたを回復させようと惜しむことをなくあなたに愛を注がれたのです。そう、あなたが母の胎内にいる時から形づくられた神様は、あなたが疲れ果て、魂も失われ、また神様から離れ歩んでいても、それでもあなたを惜しまれる神様はもう一度あなたを回復させるため、御子イエス様に私たちの思い煩いも、痛みも、何より罪も一切を背負わせ、十字架にかけられ、身代わりに罰し死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、イエス様と同じ復活の恵みに与からせて下さる、新しい命、永遠の命が与えられるのです、あなたの内に新たな霊、聖霊様が住まわれ、あなたを日々形づくり、イエス様の似姿に近づけてくださる。あなたのゆく道どこにおいても、このイエス様の命にある最高の敬愛、そのうちにあるご計画をもってあなたを日々形づくられ、導かれるのです。

 

今日、私たちは本物の神様がくださる本物の祝福、恵みを求めようではありませんか。神様は↑で預言されている偶像とは逆に、確かにあなたを見、知り、そのためなら御子イエス様の命さえ惜しむことなくその愛を実行される神様です。あなたが理想の神様を刻むのではなく、神様があなたを今日、あるべき最高の姿に、高価で尊いあなたへと、その御心をもって、愛をもって、刻み、日々形づくられ、導かれるから、この神様の御手に全てを委ねようではありませんか。あなたを造られ、あなたの救いとなられるために、御子イエス様の命さえ惜しまない神様に。