―あなたを結局形造り助けることができるのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。ある者は【私は主のもの】と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に【主のもの】としるして、イスラエルの名を名のる。』イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。『わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。…』」

イザヤ書44章1-8節

 

親の愛は、本当に深いですよね。先日の分かち合いの中では、目に入れても痛くないというような話もしましたが、どれだけの犠牲をもいとわない。私の母も、私の兄の非行、暴力により散々な目にあわされ、それに付き合わされて大事故にあった事もありました。今考えたらよく助かったね、というレベルの話です。しかし父も母も諦めず祈り、次兄は洗礼に導かれ、長兄も時々ですが教会に足を運んでいる。神様は私たちを造られた方、この神様は今日、肉の親以上に見捨てずあなたを救わんとその御手を伸ばされ続けています。神様ご自身があなたを造られ、その息吹、祝福を注がれた神様が。今日私たちはこの神様から伸ばされた御手、注がれた愛を受け、満たされ、歩みたいものです。神様が成される新しいことに期待して。

 

さて、↑は古代イスラエル王国の、バビロン捕囚期について神様が預言者イザヤを通して語られたことの続きになります。特にここではバビロンをメド・ペルシャの王クロス王の内に神様が働かれ、これを打ち破り、神様ご自身が回復させていく預言がなお続けて語られています。

 

まず神様はイザヤを通して「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ」語られます。これは非常に大きな言葉ですね。このバビロン期前まで、イスラエルの民は徹底的に神様から離れています。このイザヤが預言している時期に至っては、マナセ王が好き放題し、子どもは火にくべるわ、人身供養はするは、豊穣と称して性的…もう書くにもおぞましいことを続け、それに反対するイザヤを殺害するというとんでもないことをやらかします。

 

しかし神様、せっかく私があなたを造ったのに好き勝手して、もう見捨てる、ではなく助ける、と仰られたのです。彼らを、私たちを造られたことを恥じるのではなく、それでも、神様が選ばれ、何より母の胎内にいる時からつくったんだ、と仰られるのです。そう宣言するほどに愛する存在なのだ、と。それこそ、43章の中で語られていた、「神様の目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」と言わしめる存在なのです。ただいたずらに恐れるな、と言っているのではない、それでも神様は彼らを、あなたを愛する事を選ばれた、母の胎内にいる時から造られたことを恥じることなく、大切に育ててきたんだ、そのあなたを見捨てられるか、とその思いを切実に語られているのです。だから恐れなくていいんだ、と。

 

ちなみにここでエシュルン、と神様はイスラエルの民に呼びかけられていますが、これはイスラエルの別名で、「真っ直ぐにする、正しく考える、物事を正す」という意味があるそうです。もともと、イスラエルが広がるきっかけとなるヤコブは「かかとをつかむ者、押しのける者、ずる賢い者」という意味のごとく、長男エサウを押しのけ祝福を勝ち取ろうとしてずるいことをしたり、ある意味で賢い(ずるがしこい)ところがありました。しかし、結果兄エサウから恨みを買い、命を狙われ、逃亡生活をすることになったのですが、しかし、その中で神様は様々な場面で彼に触れられ、彼を本来あるべき姿、まっすぐに整えられたのです。あなたはもう曲がってさまようものではない、神様がその道を導かれるんだ、と。

 

そのエシュルンに向けて神様はイザヤを通して「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。ある者は【私は主のもの】と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に【主のもの】としるして、イスラエルの名を名のる」語られます。昨日の分かち合いの箇所では、荒野に道を、砂漠に川を造られることを見ましたが、もちろんそれはそれとして、さらに神様はご自身の霊を注がれる、と宣言されるのです。

 

どういうことなのか。本来私たちは、アダムが造られた時のことを思い返しますと、神様がその息吹を吹き込まれた時、アダムは生きたものとなりました。神様は本来、母の胎内いる時から形づくられ、そしてその息吹をもって生きたものとしたかった、しかし私たちが神様から離れる中で、本来神様から注がれる霊、恵みを失ってしまったのです。ただ、神様は私たちが本当の意味で生きた者、神様のくださる一つ一つの恵みによって生きてほしい、それが願いだったからこそ、神様はその霊を注がれる、と仰られたのです。

 

そもそも霊が注がれる、ということは注ぐ方が必要です。最初の時、神様がアダムに吹き込まれたから、アダムは生きたものとなった、ということを思い返しますと、神様のご意思があって初めて回復することができる、そして神様のご意思にあって私たちは生かされるのです。

 

バビロン捕囚後、捕囚地にあって預言者としてたてられたエゼキエルという人に神様は「主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。『人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。』私は答えた。『神、主よ。あなたがご存じです。』主は私に仰せられた。『これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。』私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。

 

そのとき、主は仰せられた。『息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。

 

…わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。―主の御告げ―』」と、と啓示されます。

 

これは心身ともに疲れ果て、霊的にも死んでしまった、魂をある意味で奪われてしまったようなイスラエル・私たちの様子を神様はお見せになっているのですが、これが生き返るというこの状況はエゼキエルでなくとも、「人の常識」では及びもつかないところです。しかし、神様がそれをされるからこそ成し得ることなのです。預言して言え、と言っていますが、預言は悪まで神様の口から出た言葉をそのまま語るものですから、神様のご意思そのものです、神様のご意思があって初めて生き返るのです。ただ、肉体が、外堀だけ回復しても、そこに神様の注がれる霊がなければやはり回復することはできません。ただ、ここでも神様のご意思、預言が下されることによって、神様のご意思によって私たちは生きたものとなるのです。そしてそれは集団へと流れていき、ついには、私たちは神様の恵みの中に帰っていくのです。

 

最初に見たように、もう神様から呆れられて捨てられても文句を言えないはずの私達、だって神様から離れ好き勝手に生きて、どうして文句が言えます?しかし、神様はそれでも、あなたを造られたことを恥とは思わず、かえってあなたが生きる、回復することを何より願われたのです。しかもなんとなく生きているだけではなく、もう一度神様の恵みの内に立ち返れるように、神様ご自身が呼び戻され、エゼキエルの時代でしたら、捕囚からの解放、そして後の時代にはイエス様の十字架による救い、これによって、天の御国にまで私たちは導かれる、永遠の命をいただき、死後は天国に導かれます。また、歴史的にはイスラエルの帰還が1900年代から始まりましたね。これもアウシュビッツのことを考えれば常識的にはあり得ない、しかし神様はもう一度彼らが神様を知り立ち返るように、そのことばによって呼び戻されたのです。

 

私たちには神様の霊が、ご意思が、愛が注がれている、↑で見るなら「主のもの」と神様がして下さった、宣言してくださった、この事をどれだけ感謝しているでしょうか。はじめであり、終わりである方が、あなたを悲しい終わりではなく、最初から造られ終わりまで導くために、本当の意味で「主のもの」として回復させるために、神様は御子イエス様を私たちの死んだ魂を生き返らせるため、その死を命に代えるため、私たちの身代わりに十字架にかけられ、死なせたのです。そして身代わりに陰府にまでくだらせ、3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る全ての人をこの罪赦され墓場から引き上げられ、神様のもの、神様の子・家族として迎え入れてくださるのです。

 

神様は、このイエス様の命、そのイエス様ゆえに注がれる、一つ一つの言葉、恵みによって私たちを神様にあって繋ぎ、本当の意味で今日生きたものとしてくださったのです。わたしのほかに神はいない、胎内にいる時からあなたを選び、あなたを守り、あなたを支えてくださった神様が、あなたを初めから終わりまで導かれる神様なんだ、他の存在しない偽神ではない、世の何物もあなたに勝ることのできない恵みをこのイエス様にあって注いでくださる恵みに感謝し、歩ませていただきたいものです。イエス様にあって与えられた唯一の救い、そこに込められた神様の愛、御心、ご計画に信頼して。