―本物を求めよう― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「すると、イエスが彼らに言われた。『どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。【主は私の主に言われた。[わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。]】こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。』また、民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちにこう言われた。『律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。』」

ルカによる福音書20章41-47節

 

私もそうなのですが、人が苦手にすることの一つとして、自分の非を認める事。それを自分の中に納めておくだけならまだ仕方ないとも取れるのですが、それを周りのせいにし始めたらどうにもなりません。ただ、私たちは神様にあって回復させていただける、その恵み、愛が私たちに示されていることを忘れてはいけません。そのまま放置してごまかし続けるよりも、イエス様を救い主として認め受け入れるとき、神様は私たちをそこから解放してくださる。だからこそ、私たちは神様のもとに立ち返ろう、神様があなたをあるべき姿に回復させてくださるから。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩まれ、いよいよ十字架にかかるため、エルサレムの道を進まれていたある日、イエス様は「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。『主は私の主に言われた。【わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。】』こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう」と語られます。

 

イエス様は、イエス様に人々はいろんな奇跡を求めたり、しるしを求めたりはするけど、イエス様をだれ、どんな存在だと思っているのか、ある意味で問いかけているのです。先に進む前にあえてここで皆さんに問いかけたいのですが、あなたはイエス様を何者だと考えますか?理解していますか?存在しない、とお考えですか?

 

今ここでイエス様が語られているのは、聖書の中にある詩篇110篇の中で歌われたダビデの詩なのですが、「主」が連呼されていてわかりづらいかもしれませんが、最初の主は、父なる神様、2番目の私の主は、御子イエスキリスト様にあたります。

 

当時の宗教家たちを含め、多くの人たちは、かつて彼らイスラエルの民を導いていた民も含め、救い主キリストはダビデの子として、人としてお生まれになるというように理解していました。それは彼らが尊敬するダビデ王の時代の預言者サムエルの預言、またイザヤの預言からも彼らはある程度は学んでいたので、理解はしていたのですが、ただ彼らはイエス様を救い主とは認めなかったのです。

 

まずイエス様が引用しているダビデ王、その彼に当時の預言者サムエル「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」神様に導かれて語りました。

 

ダビデの子、というくらいですから、普通に考えたらその子供を指すのかな、と思うところですが、その子ソロモン王ではないことが彼の歩んだ歴史を見れば明らかです。これはダビデの子・子孫、マリヤから生まれ出ることとなる、そういう意味でダビデの子、イエス様なのです。

 

今イエス様が仰られている宗教家たちや民衆は、イエス様を奇跡を起こす何ものか、もしくは自分を神だと名乗って神様を汚すもの、とレッテルを張っていました。しかしイエス様はある一時だけ存在するのではなく、天地万物が造られる前から今、そしてこれからも存在される方なのです。ダビデは、神様を、また主イエス様をただ何となく自分を助けてくれる、精神的支柱の存在ではなく、まことの「主」として告白するのです。主、神様なくば生きられない、と考え主、私の主、と何度も告白するのです。

 

自分が統治している時も神様が共にいるからそこにいのちがある、でももっと優れたご統治を、永遠の王国をダビデは待ち望むのです。主、私の主、イエス様が治める完全な御国を。ダビデに語られた「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい」と仰られました。やがてサタンをイエス様が、かのエデンの園でアダムとエヴァが罪を犯したときに約束された勝利宣言を成就される、その日が来る、その日に向かっている、だからこの「主」イエス様の前にへりくだろう、と。

 

今イエス様の話を聞いている人たちは、ローマ帝国打倒をしてくれるある意味では「リーダー」的救い主を求めている、しかし、イエス様はそのために来られたのではないとわかると、民衆もイエス様からこの後離れていきますし、宗教家たちも、自分の地位を脅かすイエス様を主とは認めないのです。せっかくダビデの時代から見ても1000年以上たって今目の前に本物の救い主イエス様が来てくださったのに、いや、救い主はこんな方のはずがない、自分のもう救い主像はそんなものではない、と排除するのです。

 

しかし、イエス様はサタンの支配、罪からの解放のために、来られたのです。もちろんイエス様は多くの奇跡をなされます、が、一時的に奇跡をおこなって回復させて終わりではなく、私たちを本当の意味で回復させ、イエス様の命が溢れることを願い、神様は御子イエス様を私たちの罪の代価として身代わりに十字架にかけられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎えてくださる、同じ復活の恵み、永遠の命に与らせていただけるのです。永遠のご統治、私たちが考える以上の本物の愛によって私たちを養い、導かれるのです。

 

イエス様は、最後に「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです」と語られるのですが、私たちの周りにはさまざな惑わすものがあります。時には自分の勝手に思う神様像に振り回され、神様はそんなことをされるはずがない、言うはずがない、自分を愛しているんだから裁かれるはずがない、などと変に惑わされることがあります。それを見て、そっちの方がいいと着飾ることもあります。

 

しかし、私たちは本物のイエス様の愛、十字架の前にひれ伏そう。この時、本物の義の衣、神様の子として衣が着せられ、神様が天の宴会に招かれているのですから。見えを飾るのではなく、裁きから赦し、神様の子へとイエス様の命にあって招かれたのですから、もう古い自分に変えるのではなく、日々数字では表しきれない優れた神様の恵みを、イエス様を着せていただき、歩ませていただこうではありませんか。自分の思う押し付け救い主像によるのではなく、本物のイエス様に生かされ、歩もうではありませんか。