―なんと御子イエス様がしもべとなられた!― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。『わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。』」

イザヤ書42章1-9節

 

よく偉い人ほど人があまりやらないことも積極的にする(トイレ掃除とか)といいますね。私が以前働いていたホテルでも、これができない人はリーダーにはなれませんでした。実はこれには秘密がありまして、そうした仕事をしながら、今何が必要なのかを見つける、お客さんのニーズ、声を聴いていく、そうした目的がありました。しかしそれでも、なるのは完璧ではない人間です。ただイエス様はわざわざなる必要もないしもべの姿を取り、徹底的に仕えることを良しとして来られ、また愛を注ぎ続けました。高みの見物でも、上からただ見ているだけでもなく、私たちのところにおりてきてくださってまであなたの内に注がれた愛、ご計画に私たちは信頼し、またこの前にへりくだるものであろうではありませんか。

 

さて、↑はバビロン捕囚期におけるイスラエル、また周辺諸国に関する神様の預言の続きになります。イザヤ書の前半の方からずっと見てきましたが、イスラエルの民は神様から離れ、逆らい、好き勝手に歩んでいた、しかも、今預言者として立てられているイザヤは39章まで出ていたヒゼキヤ王の息子、マナセ王に殺害されます。この時点で正直な話、神様はイスラエルを見捨ててもいい、と感情的には思ってしまうところですが、しかし、神様はなお、何とか捕囚されないように預言者をおたてになって、彼らを立ち返るように、語り続けるのでした。もしくは捕囚されても、神様が守られる、と語られ、実際に預言者を捕囚地にたてられたり、またバビロンの宦官にイスラエル人を置くことで、イスラエル人滅亡から何度となく神様は彼らを通して驚くべき御業をなし、救われました。また、捕囚から解放する際にも、メド・ペルシャの王クロス(キュロス)王に直接働きかけ、イスラエルの民を解放し、しかもサポートまでされるのです。

 

神様からしたら、何でこんな好き勝手にしていた民にここまでしなければ、と思われても仕方ない、その中で神様はそれでも彼らを愛し、怒りによって滅ぼしつくすのではなく(滅ぼそうと思えば滅ぼせる場面などいくらでもあったのに)、救うことを、愛することを選ばれたのでした。それが私たちへの思いでもあるのです。それが↑の「しもべの歌」と呼ばれる部分にもあらわれています。

 

神様はイザヤを通してなお、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む」と語られます。少し前の分かち合いでも見ましたが、正直な話、しもべという言葉にはあまりいいイメージはわかないかもしれません。しかし、ここで神様は「わたしのしもべ」を建てる、と約束されるのです。それは神の御子たるイエス様です。

 

もちろん神様ご自身子の捕囚期、怒りで滅ぼすのではなく、愛することを選んだ、それはある意味ではしもべのような姿なのかもしれません。また捕囚中、イスラエル人の宦官が、迫害によって燃える火の炉の中に(彼らを炉に入れようとして炉に近づいた人がそれだけで焼け死ぬほどの高温)入れられた際、なんと、そこに御子イエス様が彼ら共にいて、そのような炎の中でも一切やけどを負わさず、守られた、ということが実はありました。確かに捕囚期にイエス様はそこにおられたのです。神の御子イエス様が、本来見捨てられてもおかしくない状態にあったイスラエルの民と共に。

 

ただ、神様はある一時だけ救うよ、後はあなたがたがどうなっても知ったことではない、と仰られるのではなく、私たちの内に完全な救いをもたらすために、神の御子イエス様を、神様であられるのにそのありようを捨てられないとは考えずに、罪を犯さない点を除き、完全に人となって生まれてこられたのです。しかももてはやされるためではなく、徹底的に仕えられます。

 

そのイエス様が癒しをなされ、イエス様が気にくわない当時の宗教家たちがイエス様を殺そうとする(それだけで、もう見捨てる価値はあったのでしょうが、それでも彼らにイエス様は最後まで語り続けましたね)中で、このようにこの状況を見ていたマタイという12弟子の一人は記します。「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。』」と。

 

イエス様は彼らと争うでもなく、見捨てるでもなく、イエス様が私たちの望み、救いとなるために十字架にかかられるまでは最後の最後までその愛を注ぎ続けられました。イスカリオテにユダにさえ、最後の最後まで。また自分が捕まることを恐れ、イエス様など知らない、と3度にわたって否定し、最後には呪いをかけてまで否定した、そのペテロにさえ、憐れまれ、復活後にも彼を裁くためではなく、悔い改め救いを、望みを、命を得させるためにイエス様は彼のもとを訪れたではありませんか。

 

また、イエス様がその公生涯を歩み始められたころ、イエス様のいとこで、半年先に生まれているバプテスマのヨハネからイエス様がバプテスマを受けるということがありました。救い主イエス様が、しかも罪さえ犯したことのないイエス様が?と思いたくなるところですが、イエス様はここでも率先してへりくだるしもべの姿を示されたのです。神様の御前に立ち返る中にどれだけの命が、恵みが注がれるのかを、遜り、具体的に行動された、その時のことを同じマタイは

「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」と記します。その姿を神様は喜び、またそのうちに聖霊様が下る、その人の内に働かれることをまさにその身をもって示されたのです。

 

ただイエス様がしもべの姿になって仕えて終わりではなく、そのしもべの恵みにイエス様は招かれた、その中に神様の豊かなお働きが、祝福が、神様のまさに公義が現わされるのです。イエス様のゆえに。イエス様が遜り、しもべとして私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられた、その贖いのわざ、身代わりの死によって、これを私たちもへりくだり受け入れる中で、まさに、私達にも同じ恵みが注がれるのです。神様の御前にへりくだる、その恵みははかり知ることはできません。

 

イエス様は十字架にかかられる前夜、弟子たちの足を洗った後(これは本来奴隷の仕事)、

主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです」と、まさに同じように互いに仕え合う、遜る中に神様の祝福がもたらされることを約束されています。

 

私たちは誰が優れている、なんてことはありません。みな同じ神様の愛、イエス様の命をかけた救いに与ったものです。誰が神様の前に高ぶることができるでしょう。しかし、私たちは同じこの神様の恵みを受けたのですから、たがいに仕え合おうではありませんか。そこに神様がもたらされる豊かな祝福、恵み、愛が溢れ流れることを信じ。

 

イエス様の愛の炎、↑にあるように、燈心は消えることはありません。その働きは衰えることはありません。ですから私たちも、この燈心を消さず、希望を持ち続けようではありませんか神様の衰えることのない愛、その希望にすがろうではありませんか。神様はかのイスラエルの民を見捨てなかったように、私たちを見捨てず、御子イエス様の命さえ惜しまず与えてまで、あなたに新しい命をもたらされたのですから。この命から溢れるイエス様の御心を待ち望み、祈ろう。周りがどうのと諦めるのではなく、しもべとなられてまで愛を実行されたイエス様がなさろうとしている大いなる御業に信頼しようではありませんか。

 

↑の最後に、神様はイザヤを通して「天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。『わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう』」と語られています。

 

この天地万物を造られた神様が、イエス様にあって救いを成し遂げてくださった、この十字架を、私たちは見上げようではありませんか。↑の一番最初で「見よ」と語られているように、イエス様を十字架にかけられたことによって、神様はその愛を見える形で示されました。そしてこの愛は私たちの内に救いをもたらし、あなたの手を握り、守られ、どうしたらいいのか分からない、神様を見失ってさ迷い歩く私たちの目を開かれる、その希望の光、約束の光、愛をもって導き、サタンの手に縛られていた私たちを自由にされ、神様の恵みの内に今日招かれています。神様が私たちの内に今日、御心を、恵みを、愛を刻まれる。

 

私たちは神様は目に見えないから信用できない、と離れるのではなく、あなたのためにしもべとなられ、罪人としてではなく友とされ、その友である私たちを救うために命まで投げ出された、ここまでされたイエス様があなたの内に、古い命のうちにはなかった新しいことをされる、見せてくださる、語ってくださるのです。あなたが神なのではなく、主こそ神様です。私たちはこの神様の前に高ぶるのではなくへりくだり、神様の御心を待ち望み、祈ろうではありませんか。そこにもたらされる栄光を仰ぎ見て。