―捨てられることはなかった― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。』恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。―主の御告げ―あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである。」

イザヤ書41章8-20節

 

神様は差別される、と思われる方がいますね。選民云々とか。もっと身近に見れば、あの人はあんなにうまくいっているのに、どうして自分だけこんな目に合わなければいけないの?と嘆かれる方もいます。ただ、神様は差別もされなければ、あなたを見捨てておられません。ただ、その神様のかけられている御声を私のためと思い受け入れるか、その伸ばされた御手を我が助けとして取らせていただくか、あなたの決断。今日あなたは神様を神様として受け入れていますか?

 

さて、↑は前章において、今イザヤが預言を神様から預かっている約100年後の未来、バビロン捕囚期についての預言の続きになります。↑の前の箇所では、新たな力を得るために神様の御もとにおいでよ、と招きの言葉を神様は語られていました。

 

なお神様はイザヤを通して「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。』」とイスラエルに呼びかけられます。しもべ、という言葉で呼びかけられていますが、そもそも聖書の中でよく「しもべ」という言葉が出てきます。これに対して自分は召使でも何でもない、と嫌悪感を持たれる方がいますが、みなさんはこの最初の呼びかけを聞いて何を感じるでしょうか。

 

イエス様は、その公生涯の間で、「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」と教えられました。支配し、権力をふるまうようなものではないように、と対比して語られています。

 

むしろイエス様は神の御子であられながら仕える姿をとってこられました。徹底的に遜り、どんなに罵られようと私たちを愛することをやめることも、見捨てることもありませんでした。最後の最後まで仕えられ、本来それこそ召使、しもべがすべきことさえ率先してされたのです。挙句、本来しもべである私たちの罪を身代わりに背負われて死なれてまで犠牲になられた、それほどの価値を神様はしもべ、と呼ばれている私たちに注がれるのです。神様に仕える、遜るものの内に神様は豊かに恵みを注がれるのです。

 

さらにイエス様が昇天される時、弟子たちに「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる」と約束されました。主のしもべの内に神様が成される輝かしい御業を私たちは待ち望んでいますか?

 

しかもそれだけではありません。そのあなたを神様は選ばれた、というのです。ここで、さらに「わたしが選んだヤコブ」とありますが、どういうことかといいますと、彼はイスラエルの父祖にあたるアブラハムの孫なのですが、彼はお母さんのおなかの中に双子として兄エサウと共にいる時から神様は、ヤコブをイスラエルの祝福を受け継ぐものとして選ばれていたのでした。そして生まれるときには兄を押しのけて先にヤコブは出ようとしたり、祝福を欲するがあまり、というよりも神様の祝福を離さないようにと、兄エサウをだましてまで(これには、神様がヤコブを選ばれているということを神様から聞いていた母リベカの入れ知恵もありましたが)その長子の権利を奪い取ったのでした。まあ結局弟ヤコブは兄エサウの怒りを買い、20年以上にわたる逃亡劇を繰り広げることになるのですが、最終的にヤコブがイスラエルの祝福、長子の権利を受け継ぐことになります。神様の選びの通り。

 

じゃあ選ばれなかった人はかわいそうじゃないか、エサウがかわいそう、と思う人もいるでしょう。わかります。ただ言えることは、人にはそれぞれ役割があり、それぞれに神様は選ばれています。エサウにも神様はたくさん祝福し、財産も家族も土地も与え「エドム人(エサウの一族)を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである」と、彼らがイスラエルを虐げ、攻撃することだってあった、その彼らをさえ憐れまれ、守られていたのです。神様はエサウ・エドムにはエドムで祝福されていた、ただイスラエルの基となる一族としてはヤコブの方を選んだだけの話なのです。神様の願いは、イエス様も仰る通り、イエス様を信じる人が一人として滅びることなく永遠の命を持つことなのですから、その愛は変わりません。

 

実際、このヤコブ・エサウ問題以外でも、王位を継ぐものや12弟子に選ばれた人(裏切るイスカリオテのユダまで選ばれていた)、使徒、教会のリーダーとして立てられた人、様々なある意味では選ばれた人はいましたが、それぞれその職務として選ばれなかった人も神様は別な計画をもって用い、祝福されたではありませんか。その神様の計画をわが心として受け入れるかどうか、最終的にはその問題となり、そこに神様の祝福がそれぞれに待っている、あなたはこれを受け取りますか?

 

そしてさらには、友と呼んでくださる。イエス様も、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」と、あなたのためなら命を惜しまない、と十字架でこの言葉を実行され、イエス様は私たちを神様の恵みに友として、しもべとしてではなく友として招かれたのです。

 

このかたい絆のゆえに、↑の預言を神様がイザヤを通して成されているのです。それゆえに見捨てない、と。見捨てることができないゆえに、御子イエス様は私たちの罪の身代わりになってまで十字架にかかられ、死なれたのです。あなたを救いに招くために。

 

神様はイザヤを通して「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける」、と差別でもない、神様の「義」、その正しさによって確かにあなたに救いの御手を伸ばされ、救われる、その手を離さないと約束されています。神様が助けるんだ、虫けら、と。

 

虫けら、とあえて言われていますが、私たちは神様の御前に罪を犯し、好き勝手に歩み、離れ、自分の思うように操れるものを神としている、そんな私たちをそれでも神様は捨てず、友とするために、本来、神様の義ゆえに、罪ある私たちはさばかれるはずのところを、神様は御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、身代わりに罰せられ、身代わりに死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として招かれたのです。わが友、我が子として。

 

神様は、助けられる、と仰られていますが、究極的には罪の呪い、サタンの手から取り戻してくださります。今イザヤが預言しているバビロン捕囚期でも確かに神様はその憐れみのゆえに彼らを見捨てず、これまで見てきたように様々な形をもって救い出されました。しかしそれもまた、この神様の究極の愛の前味。このイエス様にある救いの内にこそ、本当の救い、命があるのです。死から助けられた、友のために命を捨てられたイエス様があなたを死から、陰府から復活をもってともに引き上げ救い出されたのです。

 

神様は↑の最後で「イスラエルの神は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである」と語られていますが、私たちが神様から離れ、世にさらされ、干からびた中に命の泉を、渇くことのない泉を溢れ流れさせてくださり、そのうちに神様の御心、ご計画、愛の実を今日結ばせてくださる、イエス様の命という種にあって。このイエス様の命にあって私たちは今日新しくされていることを覚え、このイエス様があなたを選び出された、神様の子とされた、友とされたこの恵みの内に計画された恵みに信頼し、神様の刻まれる一つ一つの恵みに感謝し、歩もうではありませんか。