―新たに力を得るために― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいて来た。彼らは互いに助け合い、その兄弟に『強くあれ』と言う。鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つ者は、鉄床をたたく者に、はんだづけについて『それで良い』と言い、釘で打ちつけて動かないようにする。」

イザヤ書41章1-7節

 

困ったことがある時に本当に親身になって聞いてくれる人がいるというのは助かりますね。どうせ誰も助けてくれない、聞いてくれない、病気とかでも誰も理解してくれない、医者は聴いてくれない(もちろん聞いてくれるところもあるでしょうが)ということもあります。ただ、それでも聴く側にもどうにもならないこともあるから、応えきれない部分もきっとあるんですよね。私もどうしてもこたえきれないこともあります。ただ、もっと本物の専門家はいるんです。神様が私たちの全てをご存じゆえに、神様が私たちを立ち上がらせてくださるゆえに、神様に祈っていいんです。神様が最善に導かれるから。私たちは神様に頼っていい、祈っていい、今も生きている神様が今日もあなたに御目を注がれているのだから。

 

さて、↑は前章において、今イザヤが預言を神様から預かっている約100年後の未来、バビロン捕囚期についての話の続きです。イザヤは残念ながらこれまで見ていたヒゼキヤ王の次の息子、マナセ王によって虐殺されます。そんな預言者、ある意味では神様のスポークスマン、そんな彼を殺害するような王、もう見捨てられてもおかしくない国家、即完全捕囚されても文句を言えないでしょう、という中にあってそれでも神様は彼らが立ち返ることを待っていた、しかも捕囚される最後の最後まで預言者を通して救われるための道を示された、捕囚された先でも預言者や、神様を信じる宦官を通して彼らを助け、ユダヤ人滅亡から救われた、何より、捕囚から解放された、神様はいつも彼らと共にある事をここまで見てきました。

 

↑の直前の箇所で神様はイザヤを通して「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」と語られていましたね。

 

↑で神様はイザヤを通して「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ」と呼びかけられますが、そもそもの話がその根拠がここにあるのです。神様は何の保証もない、虚無な存在なのではない、ある一時だけ助ける、あとは干渉しない、お金を払ったら助ける、そうでなければ助けない、とかそういう方ではないのです。永遠の神様は、永遠の昔から、私たちの生まれるずっとはるか昔、この地ができるよりもずっと前から存在されていた、その神様は私たちが滅びることではなく生きることを願い、最後の最後までその御手を伸ばされるのです。

 

神様は疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない、私たちが推し量る中ではどうせ神様は、と思うかもしれませんが、その想像をはるかに超えた神様のご計画をなそうとしてくださる。神様は私たちを立ち上がらせてくださる、新たな力、この世の知恵、知識を超えた神様という確かな存在がおられるからこそ、その神様に支えられ、私たちは立ち上がることができるのです。

 

神様の愛は私たちにははかり知ることはできません。このバビロン捕囚前後のことは、マナセ王によるイザヤ虐殺事件より先の話です。今イザヤはそのことは知らないにしても、神様はそれでもバビロン捕囚前からずっと彼らに悔い改めるようひたすらに語られたのです。そのような民など神様は見捨てることもできたはずなのに。神様の願いは私たちが生きること、それが↑の神様の預言にあらわれています。

 

ここで神様は「ユダよ」とか「イスラエルよ」と呼び掛けているのかと思ったら、「島々よ」と呼びかけます。とするとこれは、イスラエルから見た島々、地中海の島々のことを指していると言っていいでしょう。もしくは、世界中の島々。つまるところ、世界の国々と言えばわかりやすいでしょうね。神様から見たら、私たちは小さいもの、しかしその小さき私たちに神様は語りかけられるのです、「わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ」と。

 

このイザヤが預言していた頃でしたらアッシリヤ、そしてバビロンによって諸国は非常に苦しみの中にありました。しかし、神様を知らずに何を頼ったらいいかわからず、偶像により頼んでいました。ただ、それではどうにもならないではないか、と神様は呼びかけられるのです。像を拝む諸国の民に対して、いったいどちらが本物の神なのか、どちらが信頼に値する力ある神なのかを論じ合おうではないか、と天の法廷に招かれるのです。

 

裁くため?それなら力を得よ、とわざわざ仰らないですよね。彼らを見捨てるのではなく、真の神様が呼びかけ、出会ってくださるから、神様を知り、本当の意味で力を得てほしい、命を得てほしい、と、神様から離れ好き勝手にする民にも向けて訴えかけられているのです。それは、それでも彼らが神様に立ち返ることを願われていたのが見えますね、あなたに対しても。どうにもならない現実に、何を頼ったらいいのかわからずさ迷う私たちに、島々、と言えるほどに神様から離れ孤立状態になっている私たちに呼びかけるのです。神様は、ご自身のもとに帰ってきてほしい、と恵みの内に引き寄せられる神様であることを私たちは忘れてはいけません。神様は何もできない神様ではない、ご自身の最善の中に招き入れてくださる神様なのです。私たちはこの神様の呼びかけに答え、神様に近づかせていただこうではありませんか。神様が招いてくださっているのだから。

 

ではそこで神様は何を語られたのか神様はイザヤを通してなお「だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ」と語られます。

 

ひとりの者を東から起こされ、勝利を治めさせてくださる、といいますが、ではそのひとりの者とは誰なのか。これは神様、その神様が一人の人を起こさせる、ということなのです。歴史的には、バビロンによって多くの国が苦しめられ、イスラエルも捕囚されていきました。神様は預言者や、バビロン内部にダニエルというイスラエル人の宦官をたてられることによって民が苦しみ敗北、打ちひしがれ死にゆかないように助けてくださりました。それと同時に神様は、ひとりの者を起こされます。そう、バビロンを討った、メド・ペルシャの王、クロス王(キュロス王)です。南ユダ王国は紀元前586年にバビロンによって捕囚されていきますが、その70年後、クロス王はバビロンを打ち倒し、さらに島々、行く先々で勝利を治めました。

 

何だ、結局人間の力じゃないか、と思われる方もいるかもしれませんが、そうではありません。同じイザヤ書の44章、45章で神様はイザヤを通して「油注がれた者クロス」がこれをなすことを語られているのですが、神様ご自身が油注がれ、立てられ、勝利を治めさせてくださったのです。その解放時のことについて、エズラという学者は、「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。『ペルシヤの王クロスは言う。【天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように…】』」と記録します。

 

クロス王自身がこれは神様の霊が注がれ、自身を奮い立たせてくださった、勝利させてくださったのだ、と王が神様によったなんて言ったら求心力を失いかねない中で、はっきりと明言した、まさにこれは神様からの者だった、と。人によったのではない、と明確にクロス王自身も認めた。まさに、新たな力を、クロス王自身受けたのです。当時いくら衰退していたとはいえ、バビロンを打ち破るなど普通に考えたら難しい話ですし、周辺諸国の強さもだてではありません。それでも、彼は恐れず、ひとりの者」、神様によって奮い立たせていただき、神様の御業を体験させていただいたのです。そして彼を通して神様の溢れんばかりの愛が、まさか神様から離れ好き勝手にしていた諸国にいたるまで、溢れ流れたのです。神様は驚くべき方法をもって私たちに開放を告げ知らせてくださるのです。たちが諦める必要はない、神様はまず初めに愛を示された、示されるのですから。その御手を伸ばされ、私たちを救わんと。

 

残念ながら、「島々」はこのクロス王を見て恐れ、神様ではないものに頼って対抗しようとしますが、神様はクロス王を通して解放するために今御手を伸ばされているのに、人の手に頼るしかない造られたものに、人が頼ってどうしますか。この世界を、そしてあなたをはじめから終わりまで導かれる、と語られる、まず約束された神様に信頼しないでどうしますか。

 

神様は本来この島々に向けて、裁きの宣告をすることだってできたのです。しかし神様は何とかして救いたいと願い、彼らの、私たちの罪を取り除くべく、私たちの罪を身代わりに負わせ、十字架にかけられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる、罪の束縛、サタンの手、この世の思い煩い、あなたを支配する一切から解放してくださる。あなたを縛り付けるすべてのものをイエス様が打ち砕いてくださるのです。この十字架からあなたを救いの判決へと招かれているのです。

 

このイエス様にあって、まさに↑の預言にあるように、イエス様と共に歩むその先々で行く先々で神様にある勝利がそこにある。圧倒的な勝利者とさせてくださるのです。神様がいるから、私たちがたとえどんなに苦しい中にあっても強いのです。神様が受けよと言われている新しい力とは、まさにこのイエス様の救いの内にあり、イエス様があなたの内にこの十字架による勝利故に現されるのです。何か特別な力なのではない、イエス様ご自身があなたの内に住まわれ驚くべきことをなして下さる。私たちは今日このイエス様の御前に静まり、初めから終わりに至るまであなたを、この世界を、すべ治め導かれるイエス様のなされるご計画、御業に信頼しようではありませんか。驚くべきイエス様にある勝利を仰ぎ見させていただこうではありませんか。イエス様がいるから力がそこにある。あなたは今日、誰に何を求めますか。