―慰め慰められ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。』『呼ばわれ』と言う者の声がする。私は、『何と呼ばわりましょう』と答えた。『すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。』」

イザヤ書40章1-8節

 

人がつらい時、どうにもならない時、励ましてくれる、慰めてくれる人がいるというのは本当に助けになりますし、力になりますね。私も両親をなくした時、多くの教会の人が葬儀に来てくれて、励ましてくれた時、どれだけの助けになったか。一方で時には慰められて何になるのか、とどうしてもふさぎ込んでしまうこともありますよね。ただ、本物の慰めは力があります。何よりその慰めの発信する方がいるからこそ力がある。口先ではない、行動が。神様は特に慰めを、口で語るだけではなく、行動に移されます。神様はリアルにあなたを愛し、今日もあなたに心を注がれている、だからこそ私たちも神様に心を注ぎだし、いのちある関係を歩ませていただきたいものです。

 

さて、ここまでの章で預言者イザヤの視点から見た、アッシリヤ崩壊を含めたヒゼキヤ王までの歴史を見てきましたが、ここからがらりと時代が変わります。預言しているのはイザヤであることには変わらないのですが、ここからは預言の内容は約100年後までのことを含む未来の預言になります。といっても、未来予想の預言ではなく、神様が計画されている事、その御思い、御言葉をイザヤが「預かり」語るわけですが。イザヤ自身はまだそのバビロン捕囚を見ているわけではありません。かし、その未来にあっても神様の愛は変わらないことを、あらかじめ神様がイザヤを通して語られることで私たちに訴えているのです。それがこの40章からの預言になります。

 

まあ、これをただ自分が攻められていると勘違いした、前章に出てくるヒゼキヤ王の息子マナセがイザヤを殺した、と言われているようですが、結局私たちは神様から何かを示された、語られた時、責められた、裁かれた、とシャットアウトするか、それとも自分を生かすために語られている事として受け入れるか、その差は全く違います。神様の言葉は殺すことはできません。神様を殺すこともできません。むしろ神様はあなたに生きてほしいから語られる。あなたはどちらでしょうか。

 

ということで話を↑に進めます。神様はイザヤを通して「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』」と語られます。

 

これまで裁きの宣告が中心だったのが、ここから慰めを神様は語られます。前章のヒゼキヤ王の死で慰められるように、と言っているわけではありません。その後マナセがとんでもない悪政をしいた(子供を火にくべたりなど)ので、ここから一気にバビロン捕囚が決定づけられることになりました(詳しくは以前ブログでも分かち合いました列王記のところを見ていただければより詳しく解説しています)。その後何人か善王と呼ばれる王も出てくるのですが、結局バビロン捕囚は変わらず、捕囚されていくのです。その捕囚という悲しみの中にいるイスラエルの民を慰めよ、と語られるのです。

 

誰に?神様は捕囚先で、前章でイザヤを通してヒゼキヤ王に、彼の子孫から捕囚先で宦官が置かれる人が出るという話を語られていたように、確かに神様は捕囚先で、ダニエルというとても賢く神様を恐れ、また民に仕える、また王にも誠実に仕え、そのことによってイスラエルの民を守っていました。また捕囚先でイスラエルせん滅をもくろむ者たちからも守りました。また預言者も置かれ、神様はそのことによって彼らを守ろうとされていた、慰めを随時注がれていたのです。

 

↑では「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと」、と語られていますが、これはそう労苦が終わるということは、まさに裁きからの解放、バビロン捕囚からの解放について語られています。神様の民とされていたイスラエルにとってとらえ移されたことはどれだけの悲しみだったでしょう。しかし、裁きの最中は徹底的に苦しみなさい、と神様はされたのではなく、その開放の時までも、つらい時も神様はその御目を注がれ守られ、支えられていた、またその労苦が終わる時を必ず迎えさせてくださる、神様が一緒にその日まで導いて下さるのです。

 

神様は、慰めを語るのと同時に、その慰めを行動に移される神様。私たちは慰めの言葉が何になる?と思うかもしれませんが、神様は行動に移されるのです。なんと感謝な事でしょう。私たちのゆく道は、いい時もあれば悪く感じる事もあります。しかし、どんな時も神様があなたと共にあって導き出して下さる事を覚えていたいものです。

 

話を咎が償われた、という宣言に戻して、「そのすべての罪に引き換え、二倍のものを主の手から受けた」と語られていますが、この2倍について、ある人は「折り重ねる」という意味だと解説しています。貿易証人が、一度支払いが終わったら顧客のドアに半分に折られた明細書をピンで留めて、これが「倍」と呼ばれたというのです。

 

つまり、これは折り重ねた状態のことを指しています。それは半分ともう半分がちょうど対応するように、罪と罪の支払う報酬の釣り合いが取れていることを表しているのです。その罪に対する償いが十分に成されたことを意味しているのです。イスラエルの民は神様を徹底的に見下し、離れ、好き勝手に生きていた、もう見捨てられてもおかしくない、そんな罪の代価が十分に支払われた、と。神様は別に見捨てることだってできる、しようと思えば。しかし、神様はそれをされなかったのです。70年の捕囚帰還中も守られ、十分に彼らが償った、とは言えないかもしれない、しかし神様はそれでも憐れみの神様。もう一度回復させたい、と彼らを釈放されたのです。偶然ではない、神様ご自身がペルシャのクロス王の内に働かれ、彼らを解放させたのです。

 

神様は憐み深い方です。パウロという1世紀の伝道者、しかも最初はクリスチャンを迫害し、初代教会の多くのクリスチャンを苦しめ、しかも若手のホープの殺害にまで協力した、そんな彼が復活のイエス様に出会った時、イエス様は彼を裁くのではなく、悔い改めに導かれ、彼の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださったのです。そんな彼はその手紙の中で、「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました」と書き、諸教会に送りました。

 

そう、そんなひどいことをしたパウロにさえイエス様は憐れまれ、彼の罪の代価を、その十字架上で代わりにイエス様と共に張り付けられ、罪の債務証書が無効にされた、負債は完全に御子イエス様にあって支払われました。完了したのです。あなたの罪に対する負債もです。このイエス様が、何の罪も犯したことがないイエス様が、私たちの罪の代価を支払われた、それは2倍どころではない、数字では表せないほどの溢れんばかりの愛をもって、いのちをもって支払ってくださったのです。その命を受けて回復させていただいた私たちが受ける恵みはいかほどばかりか。

 

神様はなおイザヤを通して「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。』」と語られますね。厳密には、これはイエス様が公生涯を贈られる前の、バプテスマのヨハネという人に与えられた役割なのですが、イエス様が来られるその道を備えよ、ということは、裏を返せばイエス様が来られる、ということ、来てくださる、ということです。あなたを救いに、あなたを慰めるために、いのちを得させるために、一時的なものではなく永遠の命、御国へと主ご自身がその道となり導いて下さる、と。

 

あなたはその準備ができていますか?イエス様は私たちを救いに来られたのです。娯楽、観光気分で来られたのではない、あなたのためにご自身の命を差し出し、十字架で身代わりにその代価を支払い、私たちに命を得させるために死なれた、そこまでしてまであなたを取りもし、いのちを得させに来てくださったのです。そして3日目によみがえられたことによって、私たちに新しい命を備え、天の御国までその命の道をイエス様が共に進んでくださるのです。その中に神様の栄光が現わされるのです。

 

イスラエルにバビロン捕囚からの解放を宣言された神様は、はい、あとは自分で頑張ってね、とは言わず、彼らの道中を守り、イスラエルに連れ帰ってくださったように、また帰ってからの日々も守られた、また必要なすべてをそなえてくださったように、私たちを救ってはい終わり、ではなく、あなたの神様の御国に帰るまでの道全てにおいてあなたと共にあり、導いて下さる。信じて何になる?何もないじゃないか、と思う中に神様はすべてを備えてくださっているのです。あなたは御子イエス様の命にあって取り戻されたんですよ?そこに神様がどれだけの恵みを備えてくださっているか。このイエス様のなされるものの前に何ものも立ちふさがることはできません。イエス様があなたに備えられた道を私たちは信頼し歩ませていただきたいものです。

 

↑の最後で、神様はなおイザヤを通して「『呼ばわれ』と言う者の声がする。私は、『何と呼ばわりましょう』と答えた。『すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。』」と語られます。

 

実際に今見てきたことが起こるのはまだずっと先の話です。しかし、その神様を呼ばわっていい、祈っていい、助けを求めて良い、と仰られるのです。これらの約束をされた神様が、あなたが神様を求めるその道の中で答えられ、その息吹によって私たちを生かしてくださるのです。どんなに草が彼、花がしぼむようなことがあっても、神様の御言葉、このイエス様の命にあって約束されたこの愛は決してすたれることはない、と。

 

私たちは今日、イエス様にあって整えられたこの道を、イエス様から目を離さず、共に歩ませていただこうではありませんか。またイザヤがこの神様の恵みを啓示され、なおこの慰め、希望を語ったように、私達も世にあってこの希望を証、語り続ける者でありたいですね。そこに神様のなぐさえ、希望があるように。そして神様の御言葉は永遠に立つ、倒れることがないのだから、私達も疑わず、信頼し、歩み続けたいものです。イエス様にあって蒔かれた種が結ぶ大いなる身に期待して。