後悔の問題点と解決策 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

後悔とは、文字通り、後になって悔いること。
悔い改めとは、悔いるだけでなく、自分の罪、人生、考えのすべてを改めること。
 
後悔とは、自分で反省し、迷惑をかけた相手に対して謝罪すること。
悔い改めとは、神と迷惑をかけた相手とに対して罪を告白し、赦しを願うこと。
 
後悔しても、赦してもらえないことはある。
悔い改めは、心から神に対してするならば、赦されない罪など一つもない。
 
後悔とは、ある意味、自己満足の世界でもある。
しかし悔い改めとは、私自身ではなく、神が喜ばれるものである。
 
後悔とは、犯してしまった罪の道をそのまま続けて歩くことである。だからいつまた同じ過ちを犯すかもしれない。
悔い改めとは、方向転換という意味だから、もはや同じ道は歩まない。神が用意された救い主、「わたしは道である」と宣言されたイエス・キリストのの道を歩き始めることである。
 
後悔とは、自分の努力で相手から赦してもらおうとすることである。
悔い改めとは、イエス・キリストの十字架に頼ることである。
 
後悔とは、キリストを裏切ったイスカリオテのユダがしたこと。
悔い改めとは、ペテロがしたことである。この二人のその後の人生の結末を見れば、どちらが人間にとって大切なことかが見えてくる。
 
後悔とは、神なしの反省にすぎないので、いつまでもその人の重荷となり続ける。
悔い改めとは、神の完全な赦しが与えられるものなので、
犯した罪はキリストによって完全にきよめられる。
 
後悔とは、水に流してもらうことだが、
悔い改めとは、キリストの流された血潮できよめていただくことである。
 
キリストなしの赦し、それが後悔である。
キリストによる赦し、それが悔い改めである。
 
後悔の場合、たとえ被害をかけた人からは赦してもらえたとしても、神の前には全く解決されてはいないし、赦されてはいないので、根本的な解決とはならない。
悔い改めの場合には、神と人との前でなされるものなので、完全な赦しとなる。
 
神が私たちに要求しておられるのは、後悔などという安っぽく、軽いものではない。神に対する心からの罪の悔い改めと神への信仰である。それはイエス・キリストに立ち返る以外には与えられない本物の祝福である。
 
ーとある牧師先生のコラムよりー
 
*私たちも、後悔してそのまま自死したユダのようにではなく、ペテロのように、差し伸べられた御手を取ろうではありませんか。
呪ったペテロさえ、もう一度立ち上がらせた、それほどにイエス様はあなたを愛し、あなたが帰るのを待っているのですから。