―病める時も健やかな時も― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ユダの王ヒゼキヤが、病気になって、その病気から回復したときにしるしたもの。私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門に入る。私は、私の残りの年を失ってしまった。私は言った。私は主を見ない。生ける者の地で主を見ない。死人の国の住人とともに、再び人を見ることがない。私の住みかは牧者の天幕のように引き抜かれ、私から取り去られた。私は、私のいのちを機織りのように巻いた。主は私を、機から断ち切る。あなたは昼も夜も、私を全く捨てておかれます。私は朝まで叫びました。主は、雄獅子のように私のすべての骨を砕かれます。あなたは昼も夜も、私を全く捨てておかれます。つばめや、つるのように、私は泣き、鳩のように、うめきました。私の目は、上を仰いで衰えました。主よ。私はしいたげられています。私の保証人となってください。何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行なわれたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。主よ。これらによって、人は生きるのです。私の息のいのちも、すべてこれらに従っています。どうか、私を健やかにし、私を生かしてください。ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。父は子らにあなたのまことについて知らせます。主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。イザヤは言った。『ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上に塗りつけなさい。そうすれば直ります。』ヒゼキヤは言った。『私が主の宮に上れるそのしるしは何ですか。』」

イザヤ書38章9-22節

 

私たちの周りには、何でこんなことが起こるんだろう、と思うような出来事がたくさんありますね。ではそのような状況になった時、何を私たちは頼りにしたらいいでしょう。疑問程度ならいいでしょうが、自分の直面した大きな問題だったらそのままにはできません。ただ言えることは、神様があなたを生きるも死ぬも支えてくださっているということ。この神様があなたを造られ、また今日まで導いて下さったのですから、この神様に全てを委ね、歩みたいものです。神様の御心がなることを祈り。

 

さて、↑は36章から続いている、エルサレムをアッシリヤ帝国のセナケリブ王、ラブ・シャケ率いるアッシリヤ軍隊が包囲していたころ(BC715年、ないし701年)中、神様がイザヤを通してヒゼキヤ王に、死に至る病にかかった、家の周りを整理するように、と告げられたころ、ヒゼキヤ王は神様に涙を流し祈り、神様の憐れみを求めた、その結果神様は彼の寿命を延ばし、彼を通してエルサレムを救う約束をされた、その後癒された時の話になります。

 

ところで、この死に至る病にかかっていたヒゼキヤについて神様は、↑の直前の箇所で「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る」と約束されていましたね。それは、床に伏しながら、何とか15年生きながらえ、床から指示を出し、勝利を治めさせたのではなく、神様は彼を完全に癒された、と↑の「ユダの王ヒゼキヤが、病気になって、その病気から回復したときにしるしたもの」という記録から見えますね。

 

神様は、病の淵どころか、彼自身を完全に救い出されたのです。一時的ではない、彼を丸ごと。これが神様のヒゼキヤ王、そして私たちへの思いなのではないでしょうか。神様は私たちの一部ではなく、丸ごとその命で、恵みで覆いたい、その思いを私たちは受け取っているでしょうか。

 

そんな彼の思いが、この「私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門に入る。私は、私の残りの年を失ってしまった。私は言った。私は主を見ない。生ける者の地で主を見ない。死人の国の住人とともに、再び人を見ることがない。私の住みかは牧者の天幕のように引き抜かれ、私から取り去られた。私は、私のいのちを機織りのように巻いた。主は私を、機から断ち切る。あなたは昼も夜も、私を全く捨てておかれます。私は朝まで叫びました。主は、雄獅子のように私のすべての骨を砕かれます。あなたは昼も夜も、私を全く捨てておかれます。つばめや、つるのように、私は泣き、鳩のように、うめきました。私の目は、上を仰いで衰えました。主よ。私はしいたげられています。私の保証人となってください。何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行なわれたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。主よ。これらによって、人は生きるのです。私の息のいのちも、すべてこれらに従っています。どうか、私を健やかにし、私を生かしてください」という詩に現れていますね。

 

彼が病にかかっていた頃は39歳くらいでした。彼は生涯の半ばでよみの門に入る、残りの年を失ってしまった、といっていますがこれは一番わかりやすく訳すと、「人生で一番脂がのった時」と訳すのが一番わかりやすいと思いますが、彼はそんな時期、しかも↑の前の箇所で解説しましたが、まさに今アッシリヤに攻めこまれ、国が危機的状況にある時です。

 

なんともつらい話ではありますが、やはり人は病を負い、突然倒れることだってあります。もしくは両親の介護や様々な事もあって今までの生活がひっくり返ることだってあるかもしれません。私も、母親が召された年、父も病気で倒れ、これまでのような生活ができず、フルタイムで働くこともできず、生活は一気に変わり、苦しいものが正直ありました。

 

確かに彼が歌うように、天幕が移動するときに引き抜かれ、たたまれるように、機織りが完成すると遠慮なく糸が切られるように、雄獅子はすべてのものを容赦なくかみ砕くような容赦のない苦痛が、鶴は心から絞り出すような鳴き声をするそうですが、そのようにうめくような日が突然訪れることだってあります。

 

ただヒゼキヤ王は「私の目は、上を仰いで衰えました。主よ。私はしいたげられています。私の保証人となってください。何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行われたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。主よ。これらによって、人は生きるのです。私の息のいのちも、すべてこれらに従っています。どうか、私を健やかにし、私を生かしてください」と、それでも告白、歌うのです。

 

確かに彼の失ってしまった脂、いのち溢れる、活気あふれる心はよみにくだったように失われたのかもしれない。しかし、その脂、といいますか、魂を満たすのは、他でもない、神様なのです。彼を保証するのは、私たちを保証するのは誰でしょう。私たちの魂を健やかにするのは誰でしょう。神様の他にありません。

 

確かに答えのない危機的状況の中に陥った時、なんで、どうして、と、時には神様の愛、神様の存在自体を疑いたくなることがあるかもしれません。ひどい時には、まるでそれらは神様から発せられたものだ、という人もいます。しかしそうでしょうか。そもそも神様の存在を否定している人が、どうしていない神様のせいにすることができるでしょう。じゃあその神様がいない、その人の生涯には何の不平不満もない状態なのでしょうか。

 

しかし神様ご自身が人を誘惑に陥れたり、悪を行うことはありません。むしろ神様は善にして善を行われる方なのです。もし、神様が悪を行う方ならどうして私たちは今日生きていられるでしょう。しかしむしろ神様は私たちを生まれる前から、生まれて、今日にいたるまで支え導いてきてくださったではありませんか。イエス様は、イエス様を逮捕し十字架にかけようとした兵士の切り落とされた耳さえ、癒された、また十字架上で、罵る群衆たちを見ても、「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」と、私たちの裁きではなく、むしろ赦しを懇願されたではありませんか。

 

ヒゼキヤ王がなぜわざわざこの詩を残したのか、同じように苦しんでいる人はいくらでもいる、その上で神様を見上げよう、神様があなたの保証人となってくださるから、と訴えるのです。神様があなたの痛みを担い、またそれを回復させ、健やかにしてくださる。あなたの失われた喜び、脂を聖霊様で満たしてくださるのです。

 

ヒゼキヤはさらに「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです…」と続けます。

 

私の苦しんだ苦しみは平安のため、これはなかなか理解しづらいかもしれません。ただ、ヒゼキヤ王は死に至る病という絶望下、よみにくだったような中にあって、彼は神様に触れたのです。神様がそこにいた。なんで?どうして?と思っていた中で、実は神様が彼の命を保証してくださっていた、もう一度立ち上がらせてくださった、彼をまるごと神様の憐れみで、愛で満たし、生きた者、本当の意味で健やかなものにしてくださったのです。一時的なものではない、神様ご自身が彼を支えてくださった。

 

神様こそ、私たちが生きられる、しるし、保証なのです。あなたが生まれる前から今に至るまで、導いてきてくださった神様が、今日あなたを支えまたこれからも導かれる、そのような方がいるなんて、なんと幸いな事でしょう。

 

最後にイザヤは神様に導かれ、ヒゼキヤ王に「ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上に塗りつけなさい。そうすれば直ります」といいます。預言者は神様のある意味ではスポークスマンです。神様のご意思がそこにあるのです。

 

 神様ご自身が彼の人生に触れてくださり、その御手で癒してくださる、何より私たちの魂をよみに捨て置かず、本当の意味で神様からの癒し、回復、和解させる、いのちを得ることができるよう、むしろイエス様を本当の意味で保証人としてくださったのです。私たちの痛みも病も、何より私たちの罪も一切を担い、私たちの身代わりに十字架への道を進まれました。そして、私たちの身代わりに十字架に全てを背負って私たちのこれらの痛みを、罪の代価を全部身代わりに保証人としてかぶり、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、完全に魂を癒された、イエス様の復活の恵みに与らせていただき、新しい命を得させてくださったのです。もう古いあなたは過ぎ去り、すべては新しくされたのです。 

 

イエス様のこの命がけの愛の御手が伸ばされ、あなたを魂から丸ごと回復させてくださった。今日このイエス様があなたの生涯を、この命がけの愛をもって保証してくださっている、今のこの命は、今日のあなたを、明日のあなたを支えてくださっていることを覚えようではありませんか。イエス様はあなたが健やかな時も病める時も、確かにそこにおられ、よみから引き上げられ新しくしてくださったイエス様が、あなたを立ち上がらせてくださり、あなたを背負い、天の御国に行く日まで導かれるから。苦しみの中にもどん底の中にあってもあなたに命を注がれる方が。