迷信と本物、その違いは(内村鑑三) | とある働き人の聖書のお話

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東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

迷信、これは残念ながら確証がありません。

しかし、人はそれこそ「迷」うからこそ、この迷信に何とかすがりつこうとするのではないでしょうか。

では、信仰はどうなのでしょう。これも一種の迷信に見えるが…

 

内村鑑三氏は言う。

信仰は人によっては迷信のように見える。信仰は確かに一種の冒険である。これに従うとあるいは失敗に終わるかもしれない。しかしながら、信じるものは信仰が迷信でないことを知る。信仰は心に響く神の声に対する信者の応諾(応答)である。彼は形体(偶像)を見ない。また証明をもたない。しかしながら、彼は確かに信じるのである。まことに信じさせられるのである。彼にとっては信仰そのものが見えない所の物の証拠となるのである。彼はいう、私に信仰が起こった、だからこれに応じる実物がなければならないと。実物を持って信仰を証明するのではない。信仰をもって実物を証明するのである。これが信仰の力である。この力なくして信仰はこれを信仰と称することはできない。

 

信仰は神様の実体を伴う力です。

神様が保証されます。

自分の力ではありません。自分の悟りでもありません。

神様があなたのうちに現されるすべてを受け入れようではありませんか。神様が保証してくださるから。