―本当にありがたいのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そのころ、バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。彼が病気だったが、元気になった、ということを聞いたからである。ヒゼキヤはそれらを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、いっさいの武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。そこで預言者イザヤが、ヒゼキヤ王のところに来て、彼に尋ねた。『あの人々は何を言いましたか。どこから来たのですか。』ヒゼキヤは答えた。『遠い国、バビロンから、私のところに来たのです。』イザヤはまた言った。『彼らは、あなたの家で何を見たのですか。』ヒゼキヤは答えた。『私の家の中のすべての物を見ました。私の宝物倉の中で彼らに見せなかった物は一つもありません。』すると、イザヤはヒゼキヤに言った。『万軍の主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。』ヒゼキヤはイザヤに言った。『あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。』彼は、自分が生きている間は、平和で安全だろう、と思ったからである。」

イザヤ書39章1-8節

 

「ありがたい」という言葉はよく使われますね。何かをしてもらえ「た」時出てくる。これは感謝の思いが込められて、本当の意味でありがたさが伝わるのかな、と思うところなのですが。ただその時だけありがたがってその感謝を忘れるのは、と思いながら、本当の意味でありがたい、あなたを生かす神様がいるという事を私たちは忘れてはいないでしょうか。私たちは御子イエス様の命という素晴らしい贈り物をいただいたのですから、この尽きる事のない愛に生かされ、また信頼し、歩みたいものです。イエス様はあなたと共に世の終わりまで導かれるから。

 

さて、前の章で、突如としてヒゼキヤ王が死に至る病にかかってしまってどうしよう、と思う中、神様にそれでも慕い求め、祈り、癒され、感謝の賛美を捧げたところまで見ました。さあこれでめでたしめでたし、で終わるのかと思いきや、この先の南ユダのゆく道を決定づけることが起こります。ヒゼキヤ王は祈り、神様に立ち返り、癒された、アッシリヤも神様が退けてくださった、それなのに、今度はバビロン帝国が台頭してきます。そのバビロン帝国の魔の手が今ヒゼキヤ王のところに伸ばされているのでした。

 

ということで、ヒゼキヤの病が癒されたころ、彼が病気だったが、元気になった、ということを聞いて、「バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届ける」のでした。ヒゼキヤ王としては、まさか今世間を騒がしているバビロン帝国の王から贈り物が送られてくるとは、と鼻高々だったでしょう。これで自分の評判も上がるに違いない…それが実は問題だったのです。

 

ヒゼキヤ王は有頂天になって、「喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、いっさいの武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった」というのです。

 

それの何が問題なの?という問題ですが、癒されて嬉しくなったなった気持ちはわかりますが、この宝物蔵の中にあるものは、そもそも誰のもたらしたものでしょう。アハズ王の時代を含め、彼はアッシリヤの攻撃によって金銀など多くを奪われていったわけです。自ら差し出さざるを得なくなっていたわけです。ところが、それが宝物蔵いっぱいに、しかも他国の王、しかも当時台頭してきているバビロンが舌鼓を打つほどのものです。ある意味では、ヒゼキヤ王自身だけではなく、南ユダが回復した姿そのものだったのではないでしょうか。

 

しかしこれまで数章に渡り見てきた通り、ありえない形をもって神様はヒゼキヤ王を助けてきました。北イスラエルを含め、列強国、連合軍、そして周辺各国をなぎ倒し、捕囚してきたアッシリヤ帝国に囲まれ、どうやっても勝ち目がなかった。誰の目から見てももう終わりだ、という中にあって神様は、イザヤを通して救いを宣言されたではありませんか。

 

それはヒゼキヤ王の統率力や軍の力でもなく、また偶然でもありませんでしたね、37章でこの時のことについて「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた」と記されている通りです。

 

主の使い、ということは、神様が遣わされた、ということです。神様のご意思によって救われたのです。しかも最強の軍隊、アッシリヤを。当時のバビロンではまだ何もすることのできなかったそのアッシリヤを。そのアッシリヤを神様が打ち砕き、セナケリブを退け、その先で王を討たせ、ついにはアッシリヤ王国は衰退、完全に陥落したではありませんか。

 

また、イザヤの病が癒されたことについて、完全な健康体になったことについて、これは死に至る病と言われていたではありませんか。今の時代との医療技術の差は火を見るよりも明らかな中で、神様は癒された。完全に。周辺諸国に噂になるほどに。当時の常識ではありえないことがまさに起こったのです。誰が起こされたのですか?神様です。

 

ところが、ヒゼキヤ王はこれを自分の手柄のように誇り、彼らに見せます。↑で「私の家の中のすべての物を見ました。私の宝物倉の中で彼らに見せなかった物は一つもありません」と記されていますが、彼が誇ったのは神様ではなく「私のもの」だったのです。

 

そもそもですよ、覇権を握るほどに強くなってきている国に自分の手の内を見せること自体がかなりリスクのある行動ですよね。もう、狙ってください、持って行ってください、どうぞ、といわんばかりの行動です。そもそもこれ自体が王として問題あり、です。自分の国を危険にさらすことをしたのですから。

 

神様はイザヤを通してヒゼキヤ王に、「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう」と告げられますが、まさにこの行動ゆえに、彼の蓄えてきたもの、これまで先祖たちが蓄えてきたものはすべて奪い去られ、さらに彼の子孫からバビロンに連れ去られるものが出てくることが告げられるのです。実際にその子孫ダニエルは宦官となり、ついにはバビロンの地でのユダヤ人滅亡の危機を救うこととなったのでした。

 

ただ、そこだけを取り上げるとああ、神様の救いがある、と思えるのですが、一方でせっかくアッシリヤからの捕囚から免れたのに、今度はバビロンに結局捕囚されていく、ということが告げられるのです。彼が死ぬのがBC686年、バビロン捕囚が、BC586年ですから、彼から約100年後にはこの南ユダも崩壊するということです。なんでそんなことに。せっかくアッシリヤから救われたのに、と思いたくなるところです。

 

しかし、彼は神様から伸ばされた15年の年の過ごし方を根本的に間違えてしまったのです。彼の病気の話の中でも触れましたが、そもそも私たちの命は神様から与えられたものです。神様は彼の、私たちの命を保証され、支えてくださっているのです。何より神様がさらに伸ばされたその命、どう生きるか。それがある意味でその先を決めます。神様のために生きるなら、神様が園あなたの内に豊かに働かれ、実を結ばせてくださるでしょう。

 

しかし彼は自分の偉業を誇示したのです。確かにお見舞いを受けたのだからもてなすのは当然と言われたら当然なのかもしれません。しかし、彼が見せるべきは彼の家の中にあったものではなく、使者たちを神殿に連れて行き、イスラエルの神が天地を創造された唯一の神であり、恵み深く、またあわれみ深い方であり、この主をおそれるすべての者にあわれみを示してくださり、不治の病までもいやしてくださったということをあかしし、神殿の聖歌隊と共に、琴を奏でて賛美すべきだったのではないでしょうか。しかし彼のうちにはその喜びは、癒された喜びは失われてしまっていたのでした。彼の内にある宮には神様はいなかった。神様は彼の生涯の内にどれだけの恵みを注いだことでしょう。しかし、彼は神様を求めなかった。神様は注ぎ続けている、でも私たちが閉じて何になりましょう。もういいです、と倉の戸を閉めて何になるでしょう。

 

彼の寿命は神様の憐れみによって15年加えられていました。しかしその15年はせっかく元気に歩めるよう与えられていたのに、と与えられたのに、彼は神様の恵みを結構です、と拒否した、その結果、この次の王、ヒゼキヤ王の息子マナセに悪影響を与えます。そのマナセ王は徹底的に神様から離れ、ついにはバビロン捕囚への決定的なきっかけとなる出来事を起こすのです。

 

ヒゼキヤ王が病になってから3年後にそのマナセ王は生まれたのですが、ヒゼキヤが死ぬ時まで12年、彼は神様の恵みを語る事はなかった。様は、子どもたちに神様の恵みを語る事を教えられていました。神様の恵みがとこしえに尽きることがなく注ぎたい、できればバビロン捕囚に向かっていく事を望まなかった。しかし彼らが神様から離れ、結果奪われてしまう、それが神様にとってどれだけの悲しみだった事でしょう。先程の捕囚の話を告げた時、神様はどれだけの悲しみにあったでしょう。ただそれでも神様は見放していない事を子孫からバビロンの宦官を起こし、イスラエルを守られる事を語られたのです。

 

これをヒゼキヤは、自分が生きている間は、平和で安全だろう、と思って「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」といいましたが、本当の平和、安全は神様がもたらすもの、彼はその平和を子孫に受け継ごうとは思わなかった、それほどの恵みとはもう感じなくなっていたのです。本当にありがたいのは、神様が私たちと共にいる事、それ以上の事はあるでしょうか。そのありがたいことを起こして下さる、与えて下さるのは神様ではありませんか。

 

何より私たちの命は15年どころか、滅びゆく魂を、御子イエス様の命によって、あの十字架上で私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれた事によって、この十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦され、神様の子とされる、その特権が与えられる、何より永遠の命が与えられたではありませんか。これ以上のありがたい事がどこにあるでしょう。何も罪を犯したこともない、しかも神の御子イエス様が身代わりに罰せられてまであなたを救われ、取り戻されたなんて。

 

あなたには、この特権、ありえないほどの愛が注がれているのです。あなたの内側の宝物庫に、まさに宝物、キリストの愛が溢れているのです。あなたを満ち溢れさせて下さるのです。今日私たちはこのイエス様の恵みをただ受け取って終わり、ではなく、ありがたい、といって終わりではなく、日々このイエス様の下さる恵みを求め、またこれをもって世に仕え、証しする者であろうではありませんか。神様の御国が広がり、その栄光・神様のすばらしさがなお溢れ広がる事を祈り願い。