「イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、イエスに言った。『何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。』そこで答えて言われた。『わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。』すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。『もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。』そこで、『どこからか知りません』と答えた。するとイエスは、『わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい』と言われた。」
ルカによる福音書20章1-8節
学生時代や、以前の職業上、有名人と言われる方と顔を合わせたり、見かけることもありました。ただ、だから何?という話で、何を期待して待っていたのだろう、とふと今になって思うと考えさせられます。待っていたって、見かけたって、何かあるわけではない。まあ空しい経験と言えば経験なのですが、ただ、私たちに神様は会ってくださるのです。偶然見かけたとかそんなレベルではなく、あなたの神様となるために。あなたと出会ってくださる神様に今日、あなたは何を期待するでしょうか。何を願うでしょうか。私たちは私たちを救うためなら御子イエス様の命さえ惜しまれない神様に大いに信頼し、歩もうではありませんか。
さて、しばらくルカによる福音書の分かち合いが中断されていたので今の状況を振り返りますと、神の御子イエス様が人となってお生まれになり約30年、その公生涯を歩み多くの人と出会い、また教え、癒し、また悔い改めに導かれながら3年の公生涯を突き進まれました。そしていよいよ、今十字架にかかるため、エルサレムに上ってこられた、まさに裏切られ、捨てられようとしている、その時が近づいている中で、↑の出来事が起こります。
イエス様が宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたある日、祭司長、律法学者(要するに当時の宗教家)たちが長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、イエス様に「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください」と言い始めます。なんというもの言いでしょうね。彼らだって、実は救い主を待ち望んでいた、しかしイエス様を救い主としては認めていなかったのです。
もっと言いますと、彼らは神様が教えてくださった様々な愛を捻じ曲げ、自分たちの都合のいい教えに変えた、捏造してしまったために、民も彼らからある意味では心が離れていた、だからイエス様が来られた時、多くの民がイエス様を受け入れたわけですが、そんなものですから、自分たちの地位がこのままでは貶められると考え、イエス様を彼らは妬ましく思い、何とか殺害しようとこれまで何度も試みてきました。
それが、↑のイエス様と彼らのやり取り、「『わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。』すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。『もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。』そこで、『どこからか知りません』と答えた」という部分によく現れていますよね。結局イエス様を求めているのではなく、自分たちの保身しか考えていないのです。
それにしましても、彼らの「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください」という言葉、私にはどうも気になるのですが、誰からの権威かわかったなら従う、というものではないのです。律法の教師などもいましたし、自分たちが権威のトップなんだ、という思いがあったでしょうし、イエス様を父なる神様から遣わされたものとしても認めていません。ですから、むしろ自分が神の御子である事や、そうしたことを引き出して、十字架にかける理由にしようとしていたのです。
ただ、まだ問題があります。彼らが、私たちがどうして、何の権威があなたにあるんだ、とイエス様に言うことができるでしょう。むしろ私たちに何の権威があってイエス様に文句を言い、また十字架にかけることが、イエス様を殺すことが、イエス様を排除することができるでしょう。
むしろ、イエス様は本来権威ある方、神の御子であられながら、その権威を投げうって人間となって生まれて来てくださり、なんと、何の罪もないイエス様が私たちを「もう語るまい」と見捨てるのではなく、むしろ私たちを救うため、ご自身の愛をもって私たちを回復させるため、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、私たちは引き上げられるのです。
私たちは自分自身に権威を持たせたところで何になるでしょう。しかし神様は私たちを失われた者から、神様の子へと回復させてくださる、その素晴らしい恵みに与らせていただけるのです。捨てられたものから、神様の子へと。私たちはすべてを投げうってでもあなたを救い、引き上げ、新しい命、永遠の命を与えてくださったこのイエス様に今日、立ち返ろう。神様の子として回復された、このうちにイエス様が注がれる愛、この命がけの愛ゆえに与えられる恵み、ご計画があなたの内に溢れる、その喜びにあふれ、変えがたいイエス様の愛、くださる恵みに生かされ、イエス様と共に歩ませていただこうではありませんか。このイエス様の与えてくださったいのちは失望に終わることはありませんから。