「のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。うぬぼれている女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。いばらやおどろの生い茂るわたしの民の土地のために。そして、すべての楽しい家々、おごる都のために。なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ。しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。―雹が降ってあの森を倒し、あの町は全く卑しめられる。―ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあなたがたは。」
イザヤ書32章9-20節
自分はこれで大丈夫、というのは、非常にもったいないです。まずそれは過信となり、成長が望めなくなります。しかし、もっと大きな問題が訪れた時どうしましょう。自分は絶対大丈夫、という保証はどこから来るのでしょう。ただ、私たちが忘れてはいけないのは、私たちを心配してくださる神様がいるということです。神様がいるから大丈夫、という確信があなたにはありますか?そして何より、これで十分ですから、と神様から離れるのではなく、神様が成されようとしている大いなる計画に私たちは期待しようではありませんか。
さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことばになります。イザヤに神様が啓示された終わりの時のメッセージに続き、再びイスラエルについて神様は語られます。昨日の分かち合いでは、神様は私たちの内に神様にある完全なご統治、いのちある御国を広げてくださることを見ました。
今回は、この御国の回復のために何が起こるのか神様は語れるのですが、まずイザヤを通して「のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。うぬぼれている女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。いばらやおどろの生い茂るわたしの民の土地のために。そして、すべての楽しい家々、おごる都のために。なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ」と神様は語られます。
まず起こる事、それは古い神殿が崩されることです。ここで預言されていることは、イザヤの時代から見た喫緊の状態ではバビロンによるエルサレム神殿崩壊、少し時代が進みローマ帝国による破壊などが見えてきます。神様は、その古い様々な事に傷ついた神殿、もっと言うなら本来聖霊様の住まわれる宮であるはずの私たちが神様から離れ、どうしようもなく傷ついた宮を聖め、回復させてくださる、ということなのです。
もう少しこの神様がここで語られていることについてみたいのですが、南ユダ・イスラエルに向けて「のんきな女たちよ」とか、「うぬぼれている娘たちよ」と語られます。これは同じ意味の言葉なのですが、安んじているとか、平穏無事な、とか、心の鈍い、という意味を持っているようです。ただなんとなくこの神様の言葉を聞いていると、南ユダがせっかく昨日の分かち合いでも見ましたようにヒゼキヤ王の時代に回復させてくださったのに、ああ、これでもう大丈夫、自分たちの力だけでやっていけると、「うぬぼれて」、「のんきに」過ごしていた、それゆえに、神様のすばらしさに心を向けず、心が鈍り、状況を正確に理解せずに神様を求めず、結果的にエルサレム陥落へと向かっていった、という風に見えます。
まあこれは実際におこります。ヒゼキヤ王の回復の後、今度はバビロンが台頭してきて、やがてエルサレム神殿は破壊され、荒れ地となり、ぶどう畑の収穫どころの騒ぎではなく、神様のくださる実を収穫できない、神様の恵みを失ってしまう、そのような状況になることを神様は危惧され、ここであらかじめ語られているのです。またヒゼキヤ王よりさらに時間を進めてまたイエス様の昇天後数十年して、ローマ帝国によってエルサレムは完全に破壊されます。
先ほど、のんきな女たち、うぬぼれている娘たち、という言葉には「安んじているとか、平穏無事な、とか、心の鈍い」、という意味があることを見ましたが、まさに逆を行ってしまっているわけです。どこが安らかで、平穏無事なのですか。完全にこれでは逆に行ってしまっています。それをじゃあ神様はよしとされるのか。いえ、そんなことはありません。むしろその逆の状態を神様は回復させたいのです。
では、私たちの平安はどこにあるのか。平穏無事はどこにあるのか。いや、どこからくるのか。イエス様は十字架にかかられる前、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」と仰られていました。
イエス様は目に見える神殿、エルサレム神殿というよりも、神様の造られた宮、私たち自身が失われることを良しとはできないのです。イエス様を弟子たちが裏切り離れていく事を、イエス様自身分かっておられます。それでも、イエス様は彼らを見捨てられず、十字架にかかって終わり、後は好き過ごせばいい、あなた方の事は知らない、と無視されるのではなく、むしろ平安を残される。イエス様ご自身が十字架と復活によって、私たちの間に住まわれ、そのイエス様のゆえに、新しい助け主なる聖霊様が降られ、私たちの内に働き、平安をもたらしてくださるのです。この世の一時的なものではない、変動する価値観によってあなたを振り回すものでもない、あなたをもう一度、イエス様の命をもって建て直す、癒す、回復させたいのです。それがこの十字架前のイエス様の切実なるメッセージに込められているのです。
まあそれは現実色々ありますよ。それにイスラエルの歴史について先ほど触れましたが、ヒゼキヤ王の後、バビロンの台頭によって捕囚に向かっていきまし、イエス様の時代も迫害、ローマ帝国による支配によって圧迫を受けている、現実問題神様神様なんて言ってられない、と言われるかもしれません。しかしイエス様は、さらに続けて「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と仰られました。イエス様が一緒にいるから大丈夫、うぬぼれでも何でもない、イエス様が新しい命、平安を与えてくださる、その平安をどんなに世が打ち崩そうとしてもそれはできないのです。
しかもそれは一時的なものではありません。↑で神様はイザヤを通して「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。―雹が降ってあの森を倒し、あの町は全く卑しめられる。―ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあなたがたは」と語られていますが、まさにその宮殿、宮の回復が預言されているのです。厳密にいうと、先ほどのヒゼキヤ王時代の回復の後のエルサレム神殿崩壊、そこから今度は永遠の王国と言いますか御国、千年王国における完全な回復がここで約束されているのです。義、それはイエス様にあって回復された義です。
本来神様から与えられたこの宮、最高のいのちを、神様などいなくても全然大丈夫、とうぬぼれ離れ、好き勝手に生きて傷つき、本来神様が与えてくださっているこのからだ、いのちを壊してしまった、そのイメージを失ってしまい、どうしようもなくなっているこの私たちを、この罪を身代わりに背負うため、御子イエス様はその罪の罰を身代わりに十字架に背負われ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。このイエス様の義、いのちによって、私たちは神様との平和が結ばれるのです。
そうして、壊れてしまった、本来神様がたててくださり、その御名を置かれ、恵みで満ち溢れていたはずの私たちを新しくしてくださり、回復させてくださった、聖霊様の住まわれる宮として聖めてくださったのです。このイエス様にあって多くの実が結ばれるのです。ここにいのちがあるのです。
私たちはのんきにしている場合ではありませんよ?イエス様が命をかけて「上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む」と宣言された、その約束を成就させようとあなたを待ってくださっているのだから。上にとどまっているのではなく、人となって生まれて来てくださり、私たちの罪を身代わりにかぶり、罰せられ、陰府に降られ、3日目によみがえられるとともに引き上げてくださった、どん底まで降ってまであなたを取り戻され、あなたの内に平穏をも他葦、平和で、安全、安らかな憩いの場へと導いて下さるのだから。あなたは今日、イエス様にどれだけ信頼し、待ち望んでいますか?来てくださってありがとう、後は好きに生きるよ、ではなくもっともっとイエス様の御心を待ち望もう、聖霊様の充満を待ち望み喜び歩みたいものです。