―いつまでも留まっているべきは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イスラエルに王がなかった時代のこと、ひとりのレビ人が、エフライムの山地の奥に滞在していた。この人は、そばめとして、ユダのベツレヘムからひとりの女をめとった。ところが、そのそばめは彼をきらって、彼のところを去り、ユダのベツレヘムの自分の父の家に行き、そこに四か月の間いた。そこで、彼女の夫は、ねんごろに話をして彼女を引き戻すために、若い者と一くびきのろばを連れ、彼女のあとを追って出かけた。彼女が夫を自分の父の家に連れて入ったとき、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。娘の父であるしゅうとが引き止めたので、彼は、しゅうとといっしょに三日間とどまった。こうして、彼らは食べたり飲んだりして、夜を過ごした。四日目になって朝早く、彼は出かけようとして立ち上がった。すると、娘の父は婿に言った。『少し食事をして元気をつけ、そのあとで出かけなさい。』それで、彼らふたりは、すわって共に食べたり飲んだりした。娘の父はその人に言った。『どうぞ、もう一晩泊まることにして、楽しみなさい。』その人が出かけようとして立ち上がると、しゅうとが彼にしきりに勧めたので、彼はまたそこに泊まって一夜を明かした。五日目の朝早く、彼が出かけようとすると、娘の父は言った。『どうぞ、元気をつけて、日が傾くまで、ゆっくりしていなさい。』そこで、彼らふたりは食事をした。それから、その人が自分のそばめと、若い者を連れて、出かけようとすると、娘の父であるしゅうとは彼に言った。『ご覧なさい。もう日が暮れかかっています。どうぞ、もう一晩お泊まりなさい。もう日も傾いています。ここに泊まって、楽しみなさい。あすの朝早く旅立って、家に帰ればいいでしょう。』」

士師記19章1-9節

 

世の中、理不尽なことが多い。そんな中、どう自分を保つ、いや保たせていただくか、それは神様につながり続けるところにあります。神様は私たちを聖くしてくださり、神様ご自身が私たちの内に豊かな実を結ばせてくださるのです。世の中の理不尽に仕方がない、とあきらめるのではなく、時にはそこから離れ、神様から離れずいたいものです。神様が私たちを御子イエス様の命を持ってまで迎えて下さろうとしたのだから、私たちはこの愛を受け取ろうではありませんか。

 

さて、ヨシュアの死後、これまで神様が驚くほどの愛と憐みのもと救われ導いてこられてきたのに、神様をないがしろに、忘れてしまう第3世代が起こりました。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そのような状態がずっと続いてくのでしたのでした。

 

しかしそれでも神様は彼らを見捨てることをせず、その愛と憐れみのゆえにオテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、その後トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドン、そして色々問題は起こしましたがサムソンと立てられました。神様はなんとか彼らが神様に立ち返るのを待っていたのです。

 

しかし、その後も神様にイスラエルの民は立ち返ることなく堕落を続けていきます。ミカという人が偶像を作り、またそれを同じイスラエル民族が平気で強奪し、持ち出す、など、もう混沌としていました。しかし、その混沌とした状態はなお↑でも続きます(王政時代に入るまで、といいますか最後の士師サムエルが活動するまで)

 

そんな中、↑が始まります。「イスラエルに王がなかった時代のこと、ひとりのレビ人が、エフライムの山地の奥に滞在していた。この人は、そばめとして、ユダのベツレヘムからひとりの女をめとった。ところが、そのそばめは彼をきらって、彼のところを去り、ユダのベツレヘムの自分の父の家に行き、そこに四か月の間いた」とありますね。

 

王がなかったころはある意味では基準がなかった、というよりも、モーセやヨシュアを通して律法、神様がいのちのことばをかたり、その基準となり、またただの書物というよりも神様ご自身が彼らと共におられ、彼らの内に御心を現し、導く、その土地を乳と蜜の流れる地へとしてくださっていた、その恵みをあふれさせてくださっていたのです。主・神様こそ王、王の王です。

 

後の王政時代の始まりの時、イスラエルの民たちが、最後の士師サムエルが年老いたころ、彼に「私たちをさばく王を与えてください」と言ったのですが、そのことばはサムエルの気に入らなかったのです。主こそ神、王の王、万軍の主ではないか、と。そこでサムエルは神様に祈ると、神様はサムエルに「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ」と仰せられます。

 

ただ王がいなかったのではなく、彼らの基準は神様を退けた、自分たちのうちにあったのです。ここから先大変な事件が起こっていくのですが、ある意味ではその彼らのスタンダード、基準が、蒔いた種、その刈り取りの結果だったとも言えます。

 

まず、そもそもの話、その発端が最初からおかしいのです。レビ人が、神様に仕える祭司が、妻の他にそばめをもつ、ということが。もしかしたらそばめの女性も、生活苦からそうせざるを得なかったのかもしれませんが、実はそうではないようです。というのも、そばめとしてそもそも迎える、というのも失礼ですが、「そのそばめは彼をきらって、彼のところを去り、ユダのベツレヘムの自分の父の家に行き、そこに四か月の間いた」というのです。

 

ああ、気に食わなかった、お金を満たしてくれなかったから嫌いになったのかな、と思ったら、この「きらって」という言葉は姦淫を犯す、という意味なのだそうです。要するに不倫ですね。なんとなく、レビ人が彼女を嫌ったのかな、と思ってよく読んでみたら、そばめの女性が姦淫の罪を犯したのです。彼女が何に満足をしなかったのか、それはわかりませんが、このレビ人はなんとか彼女を連れ帰ろうと、「彼女の夫は、ねんごろに話をして彼女を引き戻すために、若い者と一くびきのろばを連れ、彼女のあとを追って出かけた。彼女が夫を自分の父の家に連れて入ったとき、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた」のでした。姦淫を犯した、その罪をレビ人はそれでも見逃す、といいますか目をつぶったのです。何とか彼女と一緒になろう、と。

 

思い返しますと、古代イスラエル王国分裂時代、ホセアという預言者に、神様は「行って、姦淫の女(ゴメル)をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ」と命じます。しかし、彼女は子どもを産んだのち、ホセアから離れ、姦淫を犯し、あげく悪い人のもとに捕らえられてしまったのでした。しかし神様はホセアに「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように」と命じ、ホセアは銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った(買い戻した)のでした。そしてホセアは彼女にこれから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう」と言うのでした。

 

これはホセアというよりも、神様が導かれたことです。神様が、そのような姦淫の女性をも見捨てられなかった、神様から離れ、自分勝手に好き勝手に生きる霊的な姦淫を犯すイスラエルの民、また私たちを見捨てられなかったのです。もうそこにとどまらずに、神様に帰ろう、神様も彼女を、また私たちの内にとどまってくださる、と約束してくださったのです。そばめだから、これこれこんな状態だから、と自分を卑下するのではなく、神様は私たちに目を留めてくださっていることを忘れてはいけません。

 

私たちがどこに留まるか、どのスタンダードに立つか、これが問われるところです。イエス様は、「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と離婚問題について話されていました。あまりに曖昧にしていたからです。

 

しかし、神様が出会わせてくださった、そして同じように神様が私たちを結び付けてくださるのです。神様はだから神様から離れていくことを悲しまれるのです。神様の内に留まることを何より願っていたのです。しかし、レビ人をあらゆるもてなしをもって引き留めるそばめだった女性のお父さんは、彼の持ってきたお土産を気に入ってか留めようとします。またレビ人も、そのもてなしに中々離れられずにいました。そして、そこから離れられずにいたレビ人、それが結果この後大惨事を起こすきっかけとなるのです。それはこの先の箇所で目を覆いたくなるほどひどいものだったのですが、それはその箇所の時に。

 

もちろん彼らには彼らなりの事情がありますし、明日何があるかなんて私たちにはわからないです。聖書を読めばその先に何があるのかは確かにわかるのですが、彼らはわかりません。しかしここにとどまっているのはレビ人です。なぜ彼は祈らなかったのか。曖昧な基準、いつまでもゴールを動かされ続けるなかで祈るべきだったのではないか、と思うところです。しかし、明日がわからなくても神様がそこにいるのは確かなのです。私たちを神様はいつでも導いてくださる。象徴的な存在、宗教的な存在ではない、神様はリアルなのです。リアルに生き、存在しておられるのです。その神様が、帰っておいで、わたしのもとにとどまりなさいと招かれるなら、そこにはいのちがあるのです。

 

私たち自身が↑の一番最初にあるように王となって自分の基準でいれば、いつかその刈り取りをすることになります。しかし、神様はそれでも、私たちをあらゆる世の思い煩い、何より罪の呪いから解き放ち、神様の恵み、いのちの内にとどめるため、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、死なせたのです。しかし3かめによみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としていただけるのです。↑でレビ人が迎えに行ったように、また先ほど挙げたホセアのように、イエス様ご自身がその命をもってあなたを迎えに来てくださったのです。あるべきところに帰ろう、と。

 

イエス様は「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と仰られましたが、神様がイエス様の命をもって私たちを結び付けたのです。この十字架の愛にあって、神様から私たちを引き離すことができるものは何ものも存在しません。仕方ないじゃないか、と私たちは様々な世の事情からあきらめる、しかし、神様があなたにとどまってくださり、結び付けてくださる、その先に神様がどれだけの計画、御心を持っておられるのか、私たちは大いに期待しようではありませんか。

 

なぜあなたのために命を惜しまず与えるほどに愛されたのか、なぜあなたを迎えに来てくださったのか。それはあなたを愛するため。私たちは神様が用意してくださっている、御子イエス様の命に添えられ与えられるすべての恵みに感謝し、養われ、導かれ、イエス様から離れずとどまり歩ませていただこうではありませんか。