―怒りと破壊、赦しと回復― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「翌日、民は、野に出かけて行って、アビメレクに告げた。そこで、アビメレクは自分の民を引き連れて、それを三隊に分け、野で待ち伏せた。すると、民が町から出て来るのが見えたので、彼らを襲って打った。アビメレクと、彼とともにいた一隊は突入して、町の門の入口に立った。一方、他の二隊は野にいたすべての者を襲って、打ち殺した。アビメレクはその日、一日中、町で戦い、この町を攻め取り、そのうちにいた民を殺し、町を破壊して、そこに塩をまいた。シェケムのやぐらの者たちはみな、これを聞いて、エル・ベリテの宮の地下室に入って行った。シェケムのやぐらの者たちがみな集まったことがアビメレクに告げられたとき、アビメレクは、自分とともにいた民とツァルモン山に登って行った。アビメレクは手に斧を取って、木の枝を切り、これを持ち上げて、自分の肩に載せ、共にいる民に言った。『私がするのを見たとおりに、あなたがたも急いでそのとおりにしなさい。』それで民もまた、みなめいめい枝を切って、アビメレクについて行き、それを地下室の上に置き、火をつけて、地下室を焼いた。それでシェケムのやぐらの人たち、男女約一千人もみな死んだ。それから、アビメレクはテベツに行き、テベツに対して陣を敷き、これを攻め取った。この町の中に、一つ、堅固なやぐらがあった。すべての男、女、この町の者たちはみなそこへ逃げて、立てこもり、やぐらの屋根に上った。そこで、アビメレクはやぐらのところまで行って、これと戦い、やぐらの戸に近づいて、それを火で焼こうとした。そのとき、ひとりの女がアビメレクの頭にひき臼の上石を投げつけて、彼の頭蓋骨を砕いた。アビメレクは急いで道具持ちの若者を呼んで言った。『おまえの剣を抜いて、私を殺してくれ。女が殺したのだと私のことを人が言わないように。』それで、若者が彼を刺し通したので、彼は死んだ。イスラエル人はアビメレクが死んだのを見たとき、ひとりひとり自分のところへ帰った。こうして神は、アビメレクが彼の兄弟七十人を殺して、その父に行なった悪を、彼に報いられた。神はシェケムの人々のすべての悪を彼らの頭上に報いられた。こうしてエルバアルの子ヨタムののろいが彼らに実現した。」

士師記9章42-57節

 

諦めること、それはとてももったいないことです。もし自分で実現できなくとも、こんな状況は無理だ、と思っても、神様が、その御心の内に導かれ、思いもよらないことを起こしてくださる。他の誰があなたを見ていなくとも、神様があなたを今日も見て、あなたを待っています。神様はいつでも準備万端。神様をあきらめてはいけない。神様の御心がなることをいつも切に祈ろうではありませんか。

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配した後、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを忘れ、また神様を気にもかけない、第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そんな状態がずっと繰り返されていました。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンとここまで士師を立ててくださりました。そしてギデオンたちの勝利後、彼が生きている間の40年間平安の期間を神様は与えて下さりました。

 

ところが、彼の息子の一人、アビメレクが問題を起こします。アビメレクは自分が王となるために(ギデオンは自分もその子供たちも王にはならない、と宣言していましたが)彼の兄弟70人を皆殺しにします(ヨタムという人だけは知者によって助け出されましたが)。そして神様はヨタムを通してアビメレクと彼に協力したシェケムへの裁きが降ることを預言しました。

 

そして今、彼らの内部抗争、アビメレクとその一派の裁きがいよいよ降ろうとしています。しかもアビメレクの最後はあまりにむごいものでした。ギデオンの息子、アビメレクの兄弟たちの惨たらしい死、これに神様は黙ってはいなかった。彼の犯した罪を黙っていなかったのです。私たちは時に神様は何もしてくれないじゃないか、と疑うことがありますが、神様は見ておられる。

 

↑の一番最後「こうして神は、アビメレクが彼の兄弟七十人を殺して、その父に行なった悪を、彼に報いられた。神はシェケムの人々のすべての悪を彼らの頭上に報いられた。こうしてエルバアルの子ヨタムののろいが彼らに実現した」というところを見る限り、父に行なった悪、とみると、彼には何度も悔い改める機会があったのではないか、兄弟70人を殺さず、神様に従う、民を愛する、そのようなものに。王が兄弟殺しをして権力を得て誰が信用しますか?しかもごろつきを取り巻きにおいて。ヨタムを通しても機会はあったはずです。しかし、彼は悔い改めることもなく、裁きに向かって突き進むこととなるのです。

 

この惨殺事件について、以前も申し上げましたが、アビメレクにそんなことをする必要はなかったのです。もし、神様が彼を王として召そうとされていたならなる、そうではないならそうではないなりの神様の計画があったはずなのです。

 

私たちは確かに様々な場面に直面します。アビメレクの兄弟の立場のような状況に追い込まれることもあるでしょう。しかし、私たちには神様がいるんです。アビメレクしかり、彼らがもし神様を見上げていたら、と思わされるところです。そしてアビメレクの兄弟たちへの血の報いが確かに神様はなされた、神様はあなたの苦難の状況に黙っておらず、このアビメレクの時代には神様ご自身がある意味で士師であったように、すべてを治めてくださる、だから私たちは神様を見上げよう、神様をあきらめてはいけません。

 

事実↑の前の箇所で、そんな惨殺行為を行ったアビメレクが、正当な地を受け継いでいるというガアル(同じシェケム人)の反乱を押さえつけ、シェケムに住めないようにした、一見うまくいっているように見えます。しかし、翌日、すべては反転するのです。アビメレクからしたら明から暗に、しかし神様の目から見たら一見暗い状況をもすべてひっくり返し、明に変えてくださるのです。自分が王になりたいからと、兄弟を殺したアビメレクも、彼に加担したシェケムも最後を迎えることになります。

 

アビメレクにガアルのことが告げられると、激高し、翌日彼らを虐殺します。シェケム人たちは町の外に出て、「ガアルをアビメレクがしとめたのだから、彼の怒りは収まっているだろう」と安心していたのかもしれませんが、アビメレクは違いました。裏切ったシェケム人に対する復讐心に燃え上がり、シェケムの住民たちを虐殺しました。無慈悲極まりない虐殺行為でした。シェケムは自分の母の部族だから、と自分の側に着けたのに、こともあろうにその町を破壊しつくし、挙句もう二度と立て上げられないように、と塩をまきます。

 

しかしアビメレクの怒りはまだ止まりません。↑に「シェケムのやぐらの者たちはみな、これを聞いて、エル・ベリテの宮の地下室にはいって行った。シェケムのやぐらの者たちがみな集まったことがアビメレクに告げられたとき、アビメレクは、自分とともにいた民とツァルモン山に登って行った。アビメレクは手に斧を取って、木の枝を切り、これを持ち上げて、自分の肩に載せ、共にいる民に言った。『私がするのを見たとおりに、あなたがたも急いでそのとおりにしなさい。』それで民もまた、みなめいめい枝を切って、アビメレクについて行き、それを地下室の上に置き、火をつけて、地下室を焼いた。それでシェケムのやぐらの人たち、男女約一千人もみな死んだ」とあるように、徹底的に破壊しつくしました。

 

もう、彼は目の前が見えていません。自分が何をしているのかももはやわからず、止まれなくなっているのです。そしてアビメレクはやぐらのところまで行って、これと戦い、やぐらの戸に近づいて、それを火で焼こうとした、そのとき、ひとりの女性がアビメレクの頭にひき臼の上石を投げつけて、彼の頭蓋骨を砕いたのです。女性の力を過小評価するわけではありませんが、その力はすごく神様の助けなしには難しい、確かにそこに神様が働いておられたのです。そしてアビメレクは急いで道具持ちの若者を呼んで「おまえの剣を抜いて、私を殺してくれ。女が殺したのだと私のことを人が言わないように」と言って若者に彼を刺し通させ、彼は死ぬのでした。

 

怒りは本当に怖いです。古代イスラエル王国3代目の王ソロモンは「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。…自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」と箴言に書き残します。

 

その知恵は何か?神様がすべてを治めてくださると信じることです。しかし、怒りの心を制しなければ、どんどん壊れていきます。もう止まれなくなる。しかし、神様にゆだねるとき、神様がすべてを治めてくださるのです。神様があなたを建て直し、癒し、その御心を、私たちが思う以上の形であらわしてくださります。復讐とは違う、神様の義が。

 

69人の兄弟たちからしたらとても残念な話でした。しかしだから復讐だ!としたら血で血を洗い合い、イスラエルも無茶苦茶になっていたでしょう。しかし、復讐は神様のもの、神様にゆだねるとき、神様が今シェケムへの裁きが降り、また悲惨な最期を遂げたアビメレクに降った裁きのように、必ずあなたの思いに神様の義をもって答えてくださります。

 

考えてみれば私たちはアビメレクたちに偉そうなことを言ったり書けるほどのものではありません。私たちは神様から離れ、好き勝手に生き、本来神様の怒りが私たちの頭に下り、砕けてもおかしくないものでした。しかし、神様はその怒りも、私たちへの刑罰も、私たちの負う思い煩い、罪、一切を御子イエス様に背負わせ、十字架にかけて死なせてくださったのです。ありえない話です。アビメレク立ちどころではない、私たちは神様を神様とせず好き勝手にしていた、そんな私たちにさえ、神様はこの十字架を通して立ち返る機会を、御子イエス様の命をもって今差し出してくださっているのです。

 

アビメレクの話に入ってから何度も分かち合っていますが、私たちが王、神になる必要はありません。王の王、主の主なる神様があなたの思いもすべて知っておられ、また自分のひどい状態のことを知っていてもなお神様は私たちを愛することを選ばれた、裁きをイエス様に身代わりに下されたのです。しかし裁かれて終わりではない、イエス様を3日目によみがえらせていただいたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪は洗い清められ、神様の子とされるのです。一度は罪によって崩れてしまった私たちを、神様は新しく作り変えてくださる。

 

私たちは遅くなる前に神様に立ち返ろう。傷つきすぎる前に、終わりの時の前に、神様に立ち返ろう。確かに、私たちも人間ですから行かることだってあります。しかし、パウロが「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない」と勧めているように、悪魔にスキを与えるのではなく、いち早く、神様のところに立ち返り、神様の愛で満たしていただき、委ねようではありませんか。アビメレクが止まれなくなり、ひたすらに裁きへの道を下っていったようにならないように、神様の栄光の、いのちの道を歩ませていただきたいものです。