―本当に黙っていなかったのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それから、アビメレクはオフラにある彼の父の家に行って、自分の兄弟であるエルバアル(ギデオン)の息子たち七十人を一つの石の上で殺した。しかし、エルバアルの末子ヨタムは隠れていたので生き残った。それで、シェケムの者とベテ・ミロの者はみな集まり、出かけて行って、シェケムにある石の柱のそばの樫の木のところで、アビメレクを王とした。このことがヨタムに告げられたとき、彼は行って、ゲリジム山の頂上に立ち、声を張り上げ、彼らに叫んで言った。『シェケムの者たち。私に聞け。そうすれば神はあなたがたに聞いてくださろう。木々が自分たちの王を立てて油をそそごうと出かけた。彼らはオリーブの木に言った。【私たちの王となってください。】すると、オリーブの木は彼らに言った。【私は神と人とをあがめるために使われる私の油を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。】ついで、木々はいちじくの木に言った。【来て、私たちの王となってください。】しかし、いちじくの木は彼らに言った。【私は、私の甘みと私の良い実を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。】それから、木々はぶどうの木に言った。【来て、私たちの王となってください。】しかし、ぶどうの木は彼らに言った。【私は、神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。】そこで、すべての木がいばらに言った。【来て、私たちの王となってください。】すると、いばらは木々に言った。【もしあなたがたがまことをもって私に油をそそぎ、あなたがたの王とするなら、来て、私の陰に身を避けよ。そうでなければ、いばらから火が出て、レバノンの杉の木を焼き尽くそう。】今、あなたがたはまことと真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族とを、ねんごろに取り扱い、彼のてがらに報いたのか。私の父は、あなたがたのために戦い、自分のいのちをかけて、あなたがたをミデヤン人の手から助け出したのだ。あなたがたは、きょう、私の父の家にそむいて立ち上がり、その息子たち七十人を、一つの石の上で殺し、女奴隷の子アビメレクをあなたがたの身内の者だからというので、シェケムの者たちの王として立てた。もしあなたがたが、きょう、エルバアルと、その家族とにまことと真心をもって行動したのなら、あなたがたはアビメレクを喜び、彼もまた、あなたがたを喜ぶがよい。そうでなかったなら、アビメレクから火が出て、シェケムとベテ・ミロの者たちを食い尽くし、シェケムとベテ・ミロの者たちから火が出て、アビメレクを食い尽くそう。』それから、ヨタムは逃げ去り、ベエルに行き、兄弟アビメレクを避けてそこに住んだ。」

士師記9章5-21節

 

見て見ぬふり、これがあまりいいことではないことは言うまでもありませんね。黙って見守る、という考え方もあるでしょうが、黙って見守るなら、祈るなり、何かできることはありますね。悪いことならなおのこと黙ってみているだけ、見て見ぬふりはよりたちが悪い。ただ、私たちの問題に、苦難に、同時に神様は黙っておられず、その御手を伸ばされる。私たちはどんな状況下にあっても、神様に期待しましょう。

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配し、ヨシュアの召天後、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを知らず、そこにとどまらず神様を気にもかけない、第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、ということが繰り返されていきます。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンとここまで士師を立ててくださりました。そしてギデオンたちの勝利後、彼が生きている間の40年間平安の期間を神様は与えて下さりました。

 

ところが、彼の息子の一人、アビメレクが問題を起こします。そもそもの発端、ギデオンに多くの奥さんがいた、という問題。神様の王に求められていたことは多くの妻を持たない、ということだったはずでしたが、まあ、ギデオン自身は王ではなくあくまで士師でしたが、それでも一夫多妻には旧約の歴史を含め、多くの問題が必ずと言っていいほど発生します。そして70人の子供たちの間で骨肉の争いが起き、その一人アビメレクが母の出身部族であるシェケムに頼り、自らを王にするよう策略を張り巡らせ、彼と、知者によって隠されていたヨタム以外の全員が殺される形となりました。

 

神様は何でそんなことを黙っているの?と思いますが、人の罪を隠し通せるものではなく、蒔いた種は刈り取りを必ずすることになるように、彼のこの行動に対して神様は黙っていなかったのです。ヨタムを通して預言、語られ、この先の箇所でいよいよアビメレクと彼に与したシェケムの人たちに裁きが降ります。↑はその前段階になります。

 

話を↑に進め、ギデオンが士師としてたてられ召天した後、アビメレクが問題を起こすのですが、今回は神様は士師をたてません。王になりたいというアビメレクが起こした暴挙、本来民がどうしても望むなら、という神様の前提条件が語られていましたよね、だから自分がなりたいから自分にとって邪魔になりそうな存在を排除する、ということなどありえないのです。そこで、神様ご自身がある意味ではこの士師の時代の士師・裁き司として、この問題にあたります。もっとひどくなってから、ではなく、神様はこの件について放置されません。

 

私たちは何か問題が起こるとどうして神様は何もしないんだ、助けてくれないんだ、と思うかもしれませんが、私たちの目に見えない背後で神様は働かれています。誰かの祈りを通して示されることもあります。私たちにはこのアビメレクの事件のようなことはないかもしれませんが、まず私たちがアビメレクが信じられないものを排除したように神様をあきらめてはいけないし、逆に自分に都合の悪いものを排除し、都合のいいところだけ、いいところどりだけをする、などということがないようにありたいですね。

 

というのも、神様はアビメレクにはアビメレクへのご計画があったはずそれを排除する、などということはあまりにもったいなすぎるのです。もちろん士師としてや王としてではないかもしれない、しかし神様は彼には彼への御心を働かせ、導いてくださったのではないでしょうか。私たちは自分の思いに合わないから、自分の都合のいいところ以外を排除したら、神様のご計画、御心がどうしてなしえましょう。神様はなしたい、でもいらないと、排除したら。

 

ちょっと話は脱線しましたが、実はアビメレク一派が暴挙に出て兄弟たちを殺した場所、シェケムにある石の柱というのは、話がさかのぼりますが、第2世代のリーダーのヨシュアが、死ぬ間際にイスラエル人に対して、「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える」と言いましたが、イスラエル人は、「外国の神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません」と答えました。そこでヨシュアは、「それでは、この石が私たちの証拠となる」と言って立てたのが、この石の柱です。主に仕え、外国の神々、自分を神としようとする外国の考え、これをすることなどありえない、と宣言した、その場所で、その約束を彼らは反故にしたのです。

 

私たちは神様とイエス様の十字架、いのちというこれ以上ない愛をもって結ばれたはずです。私たちは彼らのように神様との誓い、というよりもこの命の関係をないがしろにしてはいけません。神様は、十戒の中で「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」と語られていましたよね。神様は、本来は私たちがそのような咎野報いが及んでいくことよりも、神様に立ち返り、命を得る、千代にまで及ぶ恵み、祝福をあなたに注ぎたいのです。私たちが神様から離れてどうして生きていけましょうか。

 

神様がヨタムを通して語り黙っておられなかった(続きではついには裁きが降りますが)ように、神様は黙ってはおられません。最後の最後まであなたが立ち返るのを待つ、それはゆえにヨタムを通して叫ばれた、本当に叫ばれたのは神様なのです。ヨタム自身も神様の愛を、神様への信仰を捨てず、あきらめなかった。だから語られるままにその口を委ねたのです。

 

語られた内容はたとえが入っているのでわかりづらいので整理をしますと、まずここに出てくる木々はシェケムの住民です。彼らは、自分たちのために王になる人を願っていました。しかし、オリーブの木は自分から出てくる油、正確に言うなら神様の幕屋に用いられる燭台の油のために用いられているので、彼らを治めることはできません、本当に収めてくださるのは神様、のはずです。私たちは自分を王のように高ぶり考えていませんか?

 

同じように、いちじくの木も良い実をもたらすのに、ただ木々の上のそよぐために用いられることを好みませんでした。ぶどうの木もそうです。神様への注ぎの供え物として、また人々を喜ばすものとして用いられるべきなのに、どうしてそよぐためだけに用いられなければいけないのか、と言うのです。そしてシェケムが願った、「これは良い」と思った王が現れました。それはヨタムでもない、神様ご自身です。そして、木々を覆うことなど何もできない「いばら」です。これがシェケムの者たち自身を焼き尽くし、また自分自身も焼き尽くすために用いられることになります。

 

神様の注がれる御心は私たちを単純に喜ばせるだけではなく、いのちで満たしてくださります。私たちの考える喜び以上の、神様が命がけでくださる恵みです。千代、とこしえに及ぶまで恵みを神様は注ぎたい、↑でヨタムを通して語られたぶどうの木、人々に命をもたらし、神様にある本当の恵みによって笑顔をもたらすべく、私たちを囲う問題、思い悩ませる諸事情、痛み、悲しみ、何より罪に一切勝利するべく、私たちの身代わりに何の罪も汚れもないイエス様が十字架にかかられ死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の愛を受け入れる、十字架上で叫ばれた私たちの罪への赦しの懇願の祈りを私たちが受け入れ、立ち返る時、私たちの罪は赦され、神様の子とされるのです。イエス様と同じ復活の恵みに与らせていただける、新しくしていただけるのです。

 

私たちは王になる必要はありません。王どころか、私たちは王の王なる神様の家族に加えられるのですから、イエス様の命がけの愛をもって。それ以上に何を求めることができるでしょう。イエス様につながっている中で、私たちが受ける恵みはどれだけか、はかり知ることはできません。今こそ私たちはイエス様の命がけの愛をいただき、この叫び、あなたの道を照らす主の導きに従い歩みたいものです。神様があなたに喜びを注がれる、その御心に期待して。